2014年10月13日
高遠そば-3-11 荻野鐵人
8月22日、板垣退助を長とする新政府軍は会津に殺到した。山川浩は日光口を固めていたが、会津城下には敵兵が充満していて鶴ケ城に入るには衝突は免れない…、という斥候の報告を聞くと一計を案じた。村々から笛太鼓を集めさせ、楽隊を先頭にピーヒャラ・ドンドンと彼岸獅子の囃(はや)子(し)を演奏させながら包囲線を掠めて城に向かい歩武堂々と行進して行ったのである。西軍は一体いずれの部隊が勇敢にもあるいは無謀にも城に向かって進撃を始めたのか…、といささか呆気にとられてその成り行きを眺めていた。城兵はむろんその囃子から会津兵であることが解るから、あえて鉄砲を射ちかけない。西軍の前線がこれは奇妙じゃ・・と気付いたときには、隊列はするすると西出丸の向こうに吸い込まれていた。山川浩はこのとき24歳、3月に家老の末席に挙げられたばかりであったが鶴ケ城の全篭城軍の指揮を取った。
女であるが故に、戦闘になれば味方の足手まといになろう。それなれば己の命も、子供の命も、あるいは老いたる父、病める母の命も抹殺して篭城戦を支援しよう。また、おめおめ生きて敵の凌辱を受けたくない。それが侍の家に生まれた女たちの一般的な考えであった。しかし女でも自分を男より弱い存在とは思っていず、戦いに加わろうとした者もいた。山川浩の母唐(から)衣(ぎぬ)は、双葉(ふたば)(家老梶原平馬元夫人)、操(みさお)、常盤(ときわ)、咲子(捨(すて)末(まつ))と長男浩の嫁とせ子の5人を連れて降りしきる大雨にたたきつけられながら城に向かった。乱れ飛ぶ銃弾のなか逃げ場を失い右往左往する者、泣き叫ぶ子供たち、背中に老人を背負ったまま敵の銃弾にあたり倒れる者、悲鳴と叫びが耳をつんざき、すっかり新政府軍に包囲された城下は目を覆うばかりの修羅地獄と化していた。