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2014年10月14日

高遠そば-3-12 荻野鐵人

西軍の備前藩の最新鋭アームストロング砲は連日弾丸を城内に撃ち込み篭城軍に損害を与えた。ただ当時の火砲は、たとえ弾丸が破裂しても建造物を破壊し焼き尽すには、いまひとつ威力が足りなかった。だからこそ1ケ月の篭城が可能だったのである。火が燃えはじめると鳶の者たちが活躍してただちに消しとめた。彼らはまた「焼き玉押さえ」といって城内へ飛び込んで来た弾丸が火を噴こうとしているのを、濡らした布団や衣類や筵(むしろ)などで弾を覆い爆発を防いだ。この作業には婦人や子供たちも進んで協力した。この危険な行為は時に炸裂弾を見誤り飛びついて消そうとした途端に爆発して五体が四散するという悲惨なことも数多あったという。うまく取り押さえた子供には褒美として1個の握り飯が与えられた。最初は白米だったがやがて玄米になり、その大きさも小ぶりになっていったと、のちに海軍大将となった出羽重遠は回想している。
子供たちは城の中にはまだ余裕があると敵に思わせるために降伏するまで凧を揚げ続けた。
篭城の朱雀寄合四番中隊の三沢千賀良は、ある夕方父から倉庫の蔭に呼ばれた。「昨夜、ある者はわしに説いて息子は逃がせという。その言葉は道理であるやも知れぬ。しかし三沢家は小禄といえども藩祖が信州高遠を領して以来の世臣、200余年の恩顧がある。いま危うきを見てひとり生を図るは、祖先に対しては不孝、君にたいしては不忠、おまえも若輩とはいえ、此の義は判るであろう。若しおまえが死すと聞けば、わしは直ちに自害して黄泉(よみじ)への案内をしてつかわす。しかし、わしが死すと聞いても、おまえは早まってはならぬぞ。此の一事は、夢忘れてはならぬ」と千賀良は後年述べている。



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