2014年10月15日
akira's view 入山映ブログ 温故知新
以下のいくつかのコメントは、現在の官僚制に対する観察と批判としてなかなか的確なもののように読み取ることが出来る。
官僚たちは「国の運命よりも(中略)官僚組織の利益を優先」する。(所謂「省益」ありて「国益」なし。)というのもこの制度設計は「部分的合理性のみを追求して、全体的非合理性をかえりみみようとしない」からであり、当然のこととして「彼らは残念ながら、スペシャリストでしかなく、それぞれが属する組織に特化した視野と見識しか持ち合わせることができなかった。軸となるポリシーや全体的な戦略を考えるジェネラリストが育てられず、部分的合理性しか考えられない。」だから、「戦略を欠いた組織は、とりあえず状況に対応するマネジメント能力によって自己の存在意義を維持しようとする。」
一方政治家の方はどうかというと、「権力を握ることの苦労を知らない人間が、苦労をせずトップに持ち上げられていったことにあるのではないでしょうか。だから、困難にぶつかると、すぐに嫌気がさして(政権を投げ出したりして・筆者)しまう。」基本的には「政治家という職業にとって、強い権力欲と強いリーダーシップは表裏一体の関係にあることを忘れ」た結果に他ならないのかもしれない。
結果として、表向きはともかく腹の底では「失敗しても、自分は間違っていなかった。悪いのは愚かな国民だ、とあくまで言い募る」メンタリティが色濃いのではないか。
上に引いたコメントはいづれも福田和也・御厨貴・保坂正康諸氏が「新・東京裁判」という座談会(文芸春秋十月号)の中で、第二次大戦中の軍部官僚、政治家の行動について述べたものである。この六十年か七十年の間、本質的には何も変わっていないのではないか、と愕然としないか。それを転換させるべき時期がきている、というより、これを手つかずに温存していたのでは、テーマこそ変われ、同じような過ちに向かって日本はまっしぐらに進んでゆくことになる。オバマではないが、「変化」を旗印に掲げ、抽象的な美辞麗句ではなく、具体性を持った政策を基礎に政治家を選択したい。そのためには、市民自らの手による運動に何らかの形で参加し、声を挙げるところから始めるほかはないだろう。
2008年 10月 14日