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2014年10月15日

高遠そば-3-13 荻野鐵人

篭城にともなう悲惨な結果は覚悟の上だったとはいえ、1ヵ月という日時は人間の限度だった。広大な城域ではあったが、5千人の男女があるいは傷つきあるいは病で、病室はほとんど立錐の余地もないほどだった。容赦なく落下する砲弾は、炸裂するたびに御殿を震憾させ、炸裂しないものも屋根を砕き壁を打ち破った。
女子供は戦いに勝つ為、それぞれ年齢に即した役割を精一杯尽くし男たちを助けて働いた。仕事の種類によって隊を編成し、食事の仕度をする者、城中のこまごました仕事をする者、蔵から鉛の玉を運び出し、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運びこむ仕事もあった。
城内には傷ついた血だらけの兵士が次々と運ばれてくる。泥まみれの身体と異様な臭いが鼻をつく。女たちは医師の指導のもとに看護の仕事もやった。包帯がなくなると帯芯を抜き着物を裂いた。のちになって山川家の五女咲子(捨松)が、津田梅子らと共に日本最初の女子留学生として渡米した5人のうちの1人として、アメリカでカレッジを卒業後ニューヘイブンのコネティカット看護婦養成学校に短期入学したのは、この篭城での経験からでは無かったろうか。帰国後咲子は看護婦養成所を作る必要性を説き、わが国最初の慈善バザーを開催して資金集めをし、有栖川宮菫子(やすこ)夫人をはじめとする上流夫人たち29名とともに、明治20年6月、日本赤十字社に篤志看護婦会を設立し、理事となって看護法や衛生学の普及に努めた。
9月4日、米沢藩がまず和を乞い、15日、仙台藩もまた降伏した。会津藩は完全に天下に孤立した。9月半ば、城中の首脳部の間では、急速に開城の機運が動いていた。彼らが矛(ほこ)を取ったそもそもの趣旨は、鳥羽伏見以来、朝敵として貶(おとし)められたれた冤(むじつ)を天下に明らかにするためだった。しかし今や戦に勝ち目なく会津征伐の錦旗が領内に進められるという。藩主の松平容保は、全責任を負って降伏謝罪、一身に代えても戦争を終結するという決意を固めた。
容保は、重臣たちを集め、開城の決意を申し渡すと共に、「予(よ)が一身のことは、思い煩う要はない」と、主君の命を危ぶむ藩士たちを慰撫(いぶ)した。
砲術家山本覚馬の妹で、のちに新島嚢に嫁し京都の同志社を支えた山本八重子は、当時篭城中であり、三の丸雑物庫の白壁にかんざしで次ぎの歌を彫り付けた。
明日よりは 何処の人が 眺むらん
なれし大城(おおき)に のこる月影



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