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2014年10月16日

高遠そば-3-14 荻野鐵人

11月に入り、五郎は叔母たちに伴われて旧邸の焼け跡に行った。赤く焼けた瓦礫のみで庭木もほとんど見当たらず、火勢がよほど強かったのだろう、見渡すかぎり灰燼瓦礫と化して目をさえぎるものがなかった。仰げば白亜の鶴ケ城もまた砲撃・銃撃の傷痕生々しく、白壁ははげ瓦崩れ落ち、漸く立っている戦傷者のようだった。傷々(いたいた)しく、情けなく、戦いに負けたことが胸を打って涙も湧かず、両脚の力がぬけて、五郎は瓦礫の山に両手をついて打ち伏した。「五郎様、御嘆きは尤もなれど御立ちなされよ。女子の私等さえ是れ此の様に、しゃんと立っておりますものを・・・御立ちなされよ。ここには御祖母さま、母上さま、御姉さまたちの魂がさ迷って居られます。其の様なお姿を見せてはなりませぬぞ、五郎様、御立ちなされ……」五郎は腕を支えられてようやく立ったが、叔母たちはこらえきれずに泣き出してしまった。「五郎様、さあ、御自分の手で皆様の御骨を御拾いなされ」と用意の箸を五郎の手に持たせて遺骨の細片を拾い集め、紙袋におさめた。五郎は、これが祖母・母・姉妹の変わりはてたる姿とはどうしても理解できなかった。涙が頬を伝ってとめどもなく落ちた。何か命あるものはないかと瓦礫を踏んで探し求め、ようやく庭の片隅に見覚えの玉椿の小株を見っけ堀おこして持ち帰り面川沢の山荘に植えた。のちにこの椿、生き返って大木となったという。
明治2年会津藩の処分は、藩主容保とその子喜徳がそれぞれ他家にお預けとなったが一命は免れ、長州藩が嘗て蛤御門の変で朝命に抗した罪を三家老の切腹によって償った例に踏襲して、3人の家老の切腹によって償われることになった。すでに筆頭家老田中玄清は甲賀口廓門ちかくで自刃していた、また次席の神保修理は前述の如く前年の2月、江戸藩邸で切腹していた。つづいて三番家老西郷頼母が最後の席に着く順序だったが、西郷は米沢藩から五稜郭で戦っていたので、四席の萱野権兵衛が殿と会津藩の身代わりとなって死ぬ名誉を得たことをこころから喜んで、広尾の保科家別邸で訣別の一首「夢うつつ 思いも分す惜むそよ まことある名は 世にのこるとも」を残して切腹した。会津藩から最後の面会が許されたのは、萱野につぐ家老の梶原平馬および山川浩であった。まさにこの日蝦夷地では五稜郭の東軍が降伏開城した。鳥羽伏見以来一年半におよぶ内戦は、こうしてようやく終局を告げた。
萱野権兵衛の次男、郡(こおり)長正(ながまさ)は藩の中から選ばれ、旧日新館6人の生徒と共に九州は小笠原藩の育徳館へ入学した。ある時、母から届いた荷のなかに餅が入っていた。長正は、そのお礼の手紙に干し柿が欲しいと書いてしまう。それに対する母からの返事は、「食物の事をあれこれ言い、干し柿をせがむとは、武士として恥じるべき事」という内容だった。そして運悪く、この母からの手紙を他の生徒に拾われ、バカにされてしまう。会津武士と戊辰戦争で死んだ多くの会津人の名を汚してしまったと、対抗試合で勝ったあと切腹した。明治4年5月18日、奇しくも2年前父が切腹した日と同じであり、16歳であったという。
萱野家の遺子郡寛四郎は三菱商船を出て日本郵船外国航路の船長となった。



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