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2014年10月17日

高遠そば-4-1 荻野鐵人

4.斗南の苦難

あらかた火山灰地で秋霜の来るのは早く、雪の溶けるのは遅い。半年は雪に覆われた極貧の痩地である、下北半島の斗南に1万7千人のもと武士とその家族たちが、鋤や鍬もろくに持たず、また農作の知識もなくわずかな身の回りの品だけを持って、移住してきたのだった。藩主には容保の子容(かた)大(はる)(2歳)がその座に着き、藩政府は田名部に置かれた。山川浩が権大参事として政務についたが、その月給は3円(30貫文)で、その困窮ぶりは一般の藩士とさして変わるところはなかった。
後年のことになるが、容保の四男、恒雄は逆賊の子という生まれながらのハンディを背負っていたが、非常な努力家で、一高から東大法学部に進み外交官試験に首席で合格した。容保が42歳の時の子だったので、一高時代父親は亡くなっていたが、無益の血は二度と流すまいと外交官の道を選んだ。恒雄は旧佐賀藩主鍋島直大(なおひろ)の4女信子を妻に迎え、大いに国際舞台で活躍し駐米、駐英大使を歴任、戦後は郷里福島から参議院議員に選ばれ、参議院議長の要職を務め、父容保の存在を改めて世に知らせたのだった。また恒雄の長女節子が秩父宮勢津子(ちちぶのみやせつこ)妃殿下である。昭和3年秋、秩父宮家に入輿したときは戊辰戦争から60年を経ており会津人は朝敵の汚名から解放されたことを喜んで、3日3晩ちょうちん行列をやった。
頼みは新政府から下げ渡しになった米1200石と金17万両であった。急場を救う米の買い集めのため柴家の長男太一郎が藩を代表して函館に行き、デンマーク領事と交渉して輸入米を調達し斗南藩に送った。ところが、その仲介に当たった貿易商が支払うべき公金を着服して行方をくらましてしまったのである。領事はその賠償を斗南藩に求めた。しかし藩の困窮をよく承知している太一郎は責任を一身にひっかぶる決心をし、「この詐欺は拙者一存の所業でござる・・」と申し立てた。困惑した新政府は、太一郎を日本の近代法制が整うまで7年にわたって未決囚のまま各所に転々と拘禁した。



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