2014年10月19日
高遠そば-4-3 荻野鐵人
夏期こそ菜は山野の雑草を食べたが、冬期は塩豆ばかりであった。鳩(はと)侍(さむらい)などと悪口を言われたり、干した菜っ葉さえ手にはいらないので藩祖保科をもじって『干(ほし)菜(な)も食えぬ斗南衆』とも言われた。
冬を越すには急ぎ準備する必要ありとのことで、まず地表の蕨(わらび)の根を堀おこし毎日持ちかえり相当量になったら洗浄し草根を取り去り、大家より借りた広さ1坪ほど高さ2尺の机様のものの上に盛り上げ、麦打ちのように叩いて泥土状のものを作り、これを幅2尺ばかり長さ6尺ばかりの丸木舟のような木製の器に入れ、水を注いで浮いた繊維・塵等を取り去り、舟底をゆすっては、また篩(ふるい)などで細かい不純物を取り棄て、度々水を替えてはこれを繰り返し、一夜寝かせれば翌朝には澱粉が底に沈んで固まる。これを帆立貝の殻で掻きとり、更に幾度か水で洗えば白粉となりこれを乾かしたものが蕨粉である。父・太一郎の妻・五郎の3人で1日平均1升が取れた。これを田名部に持って行くと1升が200文となったという。
蕨を取った跡は雑草などを抜き棄て、耕して畠を作る。ここまではできても、3人とも百姓はまったくの素人で、菜類・豆類など幾分か成長したと思う束の間、たちまち虫に食い尽くされ、わずか20歩の水田も失敗した。やせ大根・小さい馬鈴薯を少し収穫できたが、常食は相変わらずおしめ粥であった。
板敷に蓆(むしろ)を敷き、骨ばかりの障子には米俵などを藁縄で縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのごうとしたが、陸奥湾より吹つける北風が強く部屋を吹き貫けた。背を暖めれば腹が冷えて痛み、腹を暖めれば背は凍りつくようだった。蓆を被って、みの虫のように囲炉裏の周囲を囲んで寝た。炊いた粥も石のように凍り、これを解かして啜(すす)った。
五郎は、「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに一矢を報いるまでは」と自ら叱咤するようになった。
栄養失調のためか、春になると頭髪が抜けはじめ、ついに坊主頭のごとく全体が薄禿となった。晩春となって、五三郎が突然東京から帰ってきた。海員を志し練習船に乗り込んでいたが、船が難破し離船した際、太一郎兄が藩のため獄屋にあることを知り、習学を中断して父を援助すべく帰って来たのだった。一家の実情を見て驚き、翌日より一意専心、父を助け開墾に従事することになった。
気の毒なのは太一郎の妻すみ子であった。夫はいつ帰されるかも知れず、世が世なら深窓にあって華道・茶道・琴・歌作などに心をつくしていられたものを、いまは破れた衣服を繕う布切れもなく、髪を整える油もなかった。
だれもが顔はやつれ、髪は垂れ手足は荒れて、おしめ粥を啜る、乞食のような一家であった。ときおり大家が稗(ひえ)粥をくれたが実にうまかった。また粟(あわ)餅に稗汁をかけたものは塩味もあり格別美味かった。