2014年10月20日
高遠そば-4-4 荻野鐵人
夏には山桑が多く繁ったので、これを背負えるだけ背負って田名部に行って売れば、24文となる。これはちょうど銭湯の代金であった。
7月廃藩置県で斗南藩は斗南県、9月には合併されて弘前県、11月には青森県と目まぐるしく変わった。
13歳の五郎は藩政府の選抜により青森県給仕となった。おそらくは長兄太一郎が藩のために獄に繋がれている事情が選抜された理由だろう。
一家がどんなに窮迫しょうとも決して手放さなかった仕官のときのための一張羅を着て、五三郎兄に伴われ田名部に行き藩庁の大参事山川浩に挨拶した。
五郎は県庁の元熊本藩士の野田豁通(ひろみち)、県権大参事の書生となった。後藤新平、林田亀太郎、斎藤実(まこと)などのちに名を残す人材は、いずれも野田家の書生から巣立った人びとである。
早朝、一般吏員の登庁する前の役所に行き、火を起こし湯を沸かし、部屋の掃除、火鉢その他の用度をととのえるのが給仕の仕事である。給仕仲聞には旧津軽藩黒石藩の子弟もいたが、すぐに音(ね)をあげ辛抱できずに辞めていった。五郎の甲斐甲斐しい働きぶりから、給仕は会津に限ると、補充はすべて旧斗南藩から行われるようになった。
五郎は、なんとしても東京に出ようという野望が捨て切れずにいたところ、大蔵省から地租改正調査のため東北地方巡回の一行が青森に到着し、上京の希望に火がついた。五郎は東京に出て修学したいと申し出た。「途中どんな苦役でも従います。東京まで行けば親戚もあり、どんな世話でもしてくれます」と勝手に心当たりの名を並び立てたら引き受けてくれた。
明治三年の春、柴四朗らの英語塾仲間のうち山川浩の弟の山川健次郎が北海道開拓使によるアメリカ留学生の選に入るという幸運を掴んだ。健次郎はのちに東大総長になっている。
京都守護職時代、公用局として活躍した広沢富次郎(安任)は斗南藩の小参事であったが、この地はイギリスなどの風土に近い稲や麦の栽培よりも牧畜に適していると考え、大蔵卿の大久保利通や新政府の要人たちの支持をとりつけ、政府から巨額な開業資金の貸し下げ、土地の払い下げの内意をとりつけ事業を進めていった。柴四朗はこの話にのり、イギリス人二人の付添人として加えられた。のちの広沢牧場である。