2014年10月21日
高遠そば-4-5 荻野鐵人
上京した柴五郎は、自らの力でおのれの前途を開こうと努め、名前だけは知っているが面識はない叔母の実家香坂収が教部省神祇官出仕と聞いて、私邸を訪ね寄宿を乞うた所、忽ち断られた。さりとて頼るべき所も無いので、後日ふたたび訪ねたが「既に断られたものを何故また来たのか以後は来るな」と怒られた。青森で知り合った大蔵省出仕の那須均を訪ね援助を願ったが、これまた即刻断られた。
ある日偶然、人力車を数台連ねた威勢のいい一行とすれちがった。青森で別れた野田豁(ひろ)通(みち)である。宿無しの五郎に対し見るに見かねた野田は、山川浩宛ての紹介状を書いてくれた。
元会津藩家老・斗南藩大参事の山川は、浅草永住町の観蔵院という寺の一部に間借りしており、もっぱら旧斗南藩の救済策のために奔走していた。そして家には母親の唐(から)衣(ぎぬ)(勝清院)、妹の三女常盤(ときわ)をはじめ数人の縁者がおり、また大勢の旧藩の書生が入れ代わり立ち代わりして一時の寄宿を乞うていた。一見して困窮の様子だったが、それにもかかわらず、「何時でも来なさい」と言われた。このうえ五郎を受け入れるは無理なことは明らかだったが他に頼るところもないので、五郎がここにひととき寄宿することになったのは旧暦10月初旬であった。末娘の咲子(捨松、のちの公爵大山巌元帥夫人)は五郎と同年だが、前年からアメリカに渡っていた。
10月中旬、野田豁通に呼ばれた。山川方の困窮を知っていたためだろう、五郎を同郷熊本出身の福島県知事の安場保和の留守宅に下僕として斡旋してくれた。留守宅には母堂・夫人ほか2女がいて、長女は五郎と同年輩で次女は1歳下だった。のちに長女は安場男爵夫人、次女は後藤新平夫人である。このほか書生・車夫があり、格別きびしい家庭であった。この家は細川藩で赤穂義士大石良雄の切腹を介錯したことを誇りにしていた家柄だった。安場邸における五郎の仕事は家の掃除、家族の食事のお給仕、そして二人の娘が女学校に通うときは彼女たちの本や弁当の入った袋をさげお供をすることだった。雨の日の通学は人力車なので、五郎は娘たちのあとからはねを浴びて走り、雪の日など人力車が動かなくなるとその尻押しだった。五郎は飢えや寒さにはもう馴れていたが、明日への希望を見出だせない境遇が何より悲しかった。「俺も、一廉の者に・・・」その内心の声は耳許で鐘が鳴るようにひびいた。一日の雑務を終えて床につくと、五郎の眼からはこらえようのない涙があとからあとからあふれて枕を濡らした。給料のごときは1文も支給されず、身のまわりの必要雑品は年長の書生を経て支給された。