2014年10月23日
高遠そば-4-7 荻野鐵人
五郎が陸軍幼年学校の入学通知を受けとったのは明治6年3月末のことだった。嬉しかった ! 欣喜雀躍して足の踏む所を知らずとは此のことだろう。言葉がうわずって雲の上を歩くようで、魂がふるえて額に冷汗が流れた。山川浩の喜びも五郎に優るとも劣らなかった。
兵学寮への出頭は洋式の軍服と指定されている。書生の一人に唐物屋に連れていって貰い総てを揃えるとその費用は6円を越えた。これは五郎に借金をしている山川家の支出なのである。家に帰ると待ちかまえていた浩みずから、その着用法・着付けを指導してくれた。軍服を着終わると、母堂が出てきて、「右を向いて御覧。うん立派じゃ。・・・左を向いて御覧」と眼に涙をためるようにして、その姿をいつまでも眺めていた。五郎はそのまなざしに自刃した母の面影を感じて思わず涙ぐんだ。
早速、軍服姿で野田豁通邸に挨拶に行った。「ほう ! これでよか、これでよか・・・」と微笑した。青森以来の恩愛が実って安堵したのか、ただ「よか、よか」を連発しわがことのごとくただ悦んで眺めていた。野田豁通という男は、熊本細川藩の出身のため藩閥からはずれ、薩長土肥の4藩の旧藩士に要所を占められていた官界においては、しばしば栄進の道が塞がれていたにもかかわらず後進の少年に対して旧藩対立の情を超えて、一視同仁ただ新国家建設の礎石を育てることに心魂を傾け、しかも導くに諌言をもってせず常に温顔を綻(ほころ)ばすだけだった。
長岡宅・市川宅など、世話になった家を巡って、覚えたての挙手の礼をした。紺色の派手なマンテルの裾は4月の風に翻(ひるがえ)り、桜花もまた燗漫だった。道往く人がめずらしい少年兵の姿を止まって眺めささやくのを意識し、得意満面ただ嬉しくて用事もないのに街を巡り歩き薄暗くなって帰った。五郎にとって生涯最良の日であった。