2014年10月24日
高遠そば-4-8 荻野鐵人
陸軍幼年学校は、将来軍人の幹部となるための3年ないし4年制の予備校と考えれば一番当たっているだろう。軍事学、教練といった軍隊らしい課業はまったくなかった。授業もすべてフランス語で行われた。五郎は会津弁のためイとエ、リとユの区別もつかず、同僚に嘲笑されることもしばしばで成績はすこぶる悪くつねに最後尾であった。しかし食事は朝昼晩フランス料理でスープ、パン、肉類で、土曜日の昼食だけライスカレーだった。同僚の多くは食事がまずいと不平をいっていたが、五郎にとってはまことにもって天国のようで、これでフランス語さえなかったらといつも思うのだった。
明治7年1月江藤新平らの佐賀の乱が起こり、山川浩はその能力を買われて新政府に乞われ陸軍少佐として出征した。
明治10年1月幼年学校は陸軍士官学校の付属校となり市ヶ谷の新校舎に移転した。2月、西郷隆盛による西南の役が起こり山川浩中佐は九州に出征し、野田豁通も軍の後方を取りしきる最高責任者として田原坂に行った。
五郎は3月27日、兄四朗から手紙を受け取った。『今日、薩人に一矢を放たざれば、地下に対して面目なしと考え、いよいよ本日西征軍に従うため出発す』兄の思いがその筆跡に躍動していた。四朗は戊辰の屈辱と無念をはらすべく、山川浩を口説きその従者の資格で九州に向かったのであった。
谷干(たて)城(き)がのちに農商務大臣になった時秘書官をつとめ、東海散士のペンネームで明治18年のべストセラーの政治小説『佳人(かじん)之奇遇』16巻を書いたのはアメリカ帰りの経済学士柴四朗であり、散士とは会津の敗亡によって国を失い家族を散じたさむらいを意味している。柴四朗はかって会津篭城戦で破れ、谷干城軍監の率いる土佐の陣営に降伏したことがある。
獄に繋がれていた柴太一郎は釈放されるとすぐ従軍の運動をやっていた。そして警視庁の警部補に採用され鹿児島県出張の辞令を受けた。五郎は兄たちの気持ちが痛いほど分かり、父もまたさだめし本懐を遂げ、祖母、母、姉、妹の霊前に報告したことだろうと心中察して余りあり東の方を向いて涙とともに合掌した。