2014年10月27日
高遠そば-4-9 荻野鐵人
熊本城は薩軍の攻囲を受けてから50余日を数えていた。この攻囲を破ったのは、会津篭城軍の指揮を取った山川浩中佐その人で、山川大隊は谷干城熊本鎮台司令官の率いる篭城軍の危機を救った。山川中佐が先頭に立ち四朗はすぐそのあとに従った。「別働第二旅団右翼隊指揮官山川中佐、ただいま選抜隊をもって賊を破り到着せり。後軍もまさにあいついで至らんとす」と叫んだ。
征討軍では警視隊巡査から編成した『抜刀隊』が大活躍したが、この隊には戊辰戦争での薩摩に対する怨みを晴らさんと朝敵の汚名をうけた旧藩から志願した者も多かった。『旧会津藩巡査隊、身を挺して奮闘し賊13人を斬る。その闘うとき大声に叫んで曰く、戊辰の復讐、戊辰の復讐と』(郵便報知3月28日号)
西南戦争勃発にともなう最初の巡査募集は福島県下では、田原坂の戦闘の火蓋が切って落とされた頃の3月3日に行われた。2、3日で福島県に割り当てられた450名は満杯となった。父の膝下にあってまめまめしく親に仕えていた孝行息子の柴五三郎の耳にとどいた時にはすでに定員が締め切られた後だった。意を決した五三郎は我慢ができず、西征軍に加わるべく父を兄嫁に託して、歩いて4月上旬東京に着いた。方々駆けずりまわって徴募巡査の小隊長の辞令をやっと手にいれたのは9月に入ってのことで、もう戦いは終りを迎えつつあった。このような柴家の例は、多くの旧会津藩士、ひろくは東北諸藩の士族たちに普通に起こったことであった。薩摩兵が命乞いすると「何をいうか 貴様ら会津で何をしたか覚えておるか」そう罵って相手の首を刎ねる声が、夕暮れの空気を震わせて戦野に響いたという。
五郎は西南の役が終結した時、兵科志願があって砲兵を選んだが、五郎ら第三期生には英才が多く、仙波太郎、長岡外史(歩)、秋山好古(騎)、青木宣純、内山小二郎、楠瀬幸彦、藤井茂太、柴五郎(砲)、上原勇作、落合豊三郎(工)など、日清日露の軍功を合わせてのちに中将、大将にのぼり、特異な才能によって陸軍史を彩る人材が犇(ひし)めいていた。
明治29年5月柴五郎少佐は米西戦争の戦況視察の命令を受けワシントンに行き、観戦武官として来ていた好古(よしふる)の弟秋山真之(さねゆき)海軍大尉と会い、観戦のためキューバに向かったが、日本の陸海軍を背負う壮年の士官同志として意気投合した。