2014年10月28日
高遠そば-5-1 荻野鐵人
5.北京篭城戦
明治33年柴五郎中佐は北京の日本公使館付武官として着任した。ここで高遠城篭城戦以来の世臣柴家の五郎が、世にいう北清事変、義和団事件にまきこまれ、北京篭城戦全軍の指揮官リュウトナン・コロネル・シバ(lieutenant colonel shiba)として欧米で広く知られる最初の日本人になろうとは、神ならぬ身の知る由も無かった。
日清戦争後の列強の、シナ分割競争はまことにすさまじいものがあった。山東省で2人のドイツ人宣教師が殺されたことは、ヨーロッパ軍隊のほしいままの破壊と略奪による北京侵攻のおいしい果実となった。ドイツのウィリヘルム2世はただちに膠州湾の軍事占領を命じ、ドイツ東洋艦隊は陸戦隊をぞくぞく揚陸、膠州湾および青島(チンタオ)砲台を占領した。ドイツは、殺害されたドイツ人宣教師に対する賠償金・山東省における鉄道の敷設権・鉱山採掘権・ドイツ人雇傭の優先権、そして膠州湾および青島の99ヵ年の租借権、さらにはドイツ人が同地占領に要した費用にいたるまで獲得した。このドイツの行動の裏にはロシア皇帝ニコライニ世との盟約があった。清国がロシアに満州を横断して満州里とウラジオストックを結ぶ鉄道の敷設権を与えた時には、清国またはロシアが他国から脅威を受けた時は可能なかぎり援助する、という『露清密約』がすでに明治29年に結ばれていた。ドイツから強硬な要求に直面した時、清国は当然ロシアの援助を乞うた。ロシアは清国を援助するという名目で強力な艦隊を旅順港に送るや否や旅順を含む遼東半島の割譲を要求した。ロシアはシナを良く研究してあり、李鴻章および財務大臣に賄賂を贈ってあった。2人は宮廷を説得し清国はロシアの要求に屈した。そうなるとすでにインドシナ半島を併合していたフランスも黙っていない。広州湾をむしり取った。イギリスもロシアの要求に対して清国のために戦うそぶりで軍艦を旅順港に派遣し、一転して、日本が日清戦争の結果まだ保障占領していた威海衛を清国に要求し果たした。義和団による運動はこれらの列強の清国分割競争に対する民衆からの不満の地鳴りだった。もともと義和団は拳法による結社である。彼らの排撃の目標は、まず自国民のキリスト教徒に向けられた。そして『西教排斥』のスローガンはやがて『扶清滅洋』へと変わって行ったが、清国宮廷政府がこの運動にひそかに共感し義和団の『暴行』を取り締まるのにしだいに熱意を欠いて行ったとしてもあまり咎めることはできない。義和団のキリスト教民に対する暴動に端を発し、イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、オランダ、ベルギー、スペインの欧米10ケ国、そして日本の公使館への攻撃となり、各国の公使館付武官、陸戦隊の指揮官たちはイギリス公使館の広間に参集し会議を行った。