2014年10月29日
高遠そば-5-2 荻野鐵人
天津の外港である太沽(タークー)には、常時、列国の軍艦が碇泊している。そこで掻き集められた混成の海軍陸戦隊の救援隊341名が明治33年5月1日に北京に到着していた。日本25、イギリス82、フランス78、ロシア51、イタリア31、アメリカ54名であった。続いて6月3日にはドイツ、オーストリアの将兵84名が、機関砲とともに入京した。
6月4日北京一天津間の鉄道が義和団によって襲われ破壊されたという重大なニュースが飛び込んで来た。外交団は大規模な第二次救援隊を至急北京に差し向けるよう天津に打電し、イギリスの東洋艦隊司令官シーモア中将を指揮官とする2千人の混成部隊が編成され汽車で北京に急行することになった。
6月7日の会議はオーストリアのフォン・トーマン中佐を中心に進められた。
「なあに、シナの団匪なんぞ機関砲で脅かせばなんのことはない。それに間もなく援軍も到着することだし、ま、諸君あまり神経質になられぬほうがよろしいですぞ」と言っていたが、五郎は沈黙を守りつつも事の重大さを予感し綿密な防衛計画を立てていた。五郎がはじめ沈黙していた一つの理由は日本の兵力が少ないことであり、もう一つは、さいわい日本の公使館は公使館区域のほぼ中央に位置していたことである。公使館区域は、南に内城壁を負い、東西900メートル・南北800メートル、ほぼ5万4千坪の広さを持っていた。
始めの中、この短躯の日本人は一同から殆ど無視されていた。しかし議論が進むに連れて、堪能な英仏語で列席者に溶け込んで行った。
五郎は発言した。「私は、それぞれの持ち場の部隊の勇敢さを信頼しています。問題は、お互いに隣接する部隊の緊密な連繋でありましょう。おのおのの戦闘正面の分担を明確にするとともに相互の連絡方法を充分に話し合われることを私は切望いたします。わが方の綻(ほころ)びを縫って敵が浸透してくることをわれわれは最も警戒しなくてはなりません。相手はシナ人の暴徒で地理には詳しい。こちらの内部には一般市民とくに御婦人をもかかえています。堤防も蟻の一穴からとやら。ちょっとした綻びがわが内部の混乱と騒ぎを招き、防御線崩壊の引き金とならぬよう注意が肝要かと思います」これは大事な意見であったが誰も本当の意味に気付いていなかった。そして列席者からは軽く聞き流された。
各武官たちは、自分たちの公使館を守ることには熱心だったが、前後左右の連繋については熱心ではなかった。さらに実は重大な手抜かりがあった。それは、この会議で正式の総指揮官を決めなかったことである。