2014年10月31日
高遠そば-5-4 荻野鐵人
王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人 義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。『日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官lieutenant colonel shibaである。僕は長時間かけて、各国受け持ちの部署を見て回ったものだが、僕はここで、初めて組織されている集団を見た。此の小男は何時の間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下たちを組織化しさらに大勢の教民たちを召集して前線を強化していた。僕はすでに此の小男に傾倒していることを感じる。僕は間もなく彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう。小柄な奇才、柴中佐はやたらに歩きまわって時間をむだにするようなことをしない。彼は緑・青・赤の点を付した地図を携帯しており、刻々と変わる兵隊たちの部署、それぞれの兵力、戦闘能力をつねに監視し記録している。何故か、僕は日本兵の持ち場から離れることが出来なくなってしまった。彼らの組織づくりはそれほど素晴らしい』
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
この後、王府を守る柴中佐以下の奮戦は、8月13日に天津からの救援軍が北京に着くまで2ヶ月余り続く。睡眠時間は3,4時間。大砲で壁に穴をあけて侵入してくる敵兵を撃退するという戦いが繰り返し行われた。総指揮官マグドナルド公使は、最激戦地で戦う柴への信頼を日ごとに増していった。イタリア大使館が焼け落ちた後のイタリア将兵27名や、イギリス人義勇兵を柴の指揮下につけるなど迅速的確な支援を行った。
6月27日には、夜明けと共に王府に対する熾烈な一斉攻撃が行われた。多勢の清国兵は惜しみなく弾丸を撃ちかけてくる。弾薬に乏しい籠城軍は、一発必中で応戦しなければならない。午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入してきた。柴は敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をした。敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていった。この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞した。
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中でこう記述している。
『戦略上の最重要地である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり頭脳であった。日本軍を指揮した柴中佐は、篭城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか誰からも好かれ尊敬された。当時日本人とつきあう欧米人は殆どいなかったがこの篭城を通じてそれが変わった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは篭城者一同の賞賛の的となった。この篭城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも一言の非難を浴びていないのは日本人だけである』
王府を守りながらも、柴中佐と日本の将兵は他の戦線でも頼りにされるようになっていった。アメリカが守っている保塁が激しい砲撃を受けた時、応援にかけつけたドイツ、イギリス兵との間で、いっそ突撃して大砲を奪ってはどうか、という作戦が提案され、激しい議論になった。そこで柴中佐の意見を聞こうということになり、呼び出された柴が、成功の公算はあるが、今は我が方の犠牲を最小にすべき時と判断を下すと、もめていた軍議はすぐにまとまった。
イギリス公使館の正面の壁に穴があけられ、数百の清国兵が乱入した時は、柴中佐は安藤大尉以下8名を救援に向かわせた。最も広壮なイギリス公使館には各国の婦女子や負傷者が収容されていたのである。
安藤大尉は、サーベルを振りかざして清国兵に斬りかかり、たちまち数名を切り伏せた。つづく日本兵も次々に敵兵を突き刺すと、清国兵は浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出した。安藤大尉らの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは讃歎の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなった。