2014年11月1日
高遠そば-5-5 荻野鐵人
イギリス公使館の書記生だったランスロット・ジャイルズは『王府への攻撃があまりに激しいので夜明け前から援軍が送られた。王府で指揮を取っているのは柴中佐である。日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見倣(みな)されている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が此れに続く。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う』
一般居留民として篭城したアメリカ女性ポリー・C・スミスの記録にも『柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。最初の会議では各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでした。でも、今ではすべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をふるい偉大な士官であることを実証しました。だから今ではすべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです』
7月3日、柴中佐が日本人の手にある糧食を調べると、2週間分の米と若干の昆布、隠元豆がその総てであった。弾薬も乏しくなっていた。野戦病院での日本兵がヨーロッパの兵士のように泣き叫んだり、大きな呻き声を出したりしないばかりか我慢強く明朗なので、看護にあたる欧米の婦人たちは、男らしい日本将兵のファンになった。
太沽には日本軍などの連合軍が1万に達したが、3万の官兵と万余の義和団が優勢な砲撃の支援のもとにしばしば勇敢な突撃を敢行して攻め立てた。北京の急を救うためには、まず天津城に拠る敵の主力を撃破し、30余里のみちのりを敵と戦いながら踏破しなければならない。それまで北京の篭城軍は、はたして持ち堪えることができるだろうか?
7月13日、天津城の攻撃は日本軍2千7百、米軍9百、仏軍8百、英軍650名の兵士で行われ、その日のうちに攻略した。
7月19日北京に篭城する日本兵は銃弾を撃ちつくしていた。その日の午前10時頃、早朝からつづいていた激しい銃声がぴたりと止んだ。
そして7月24日、四囲の銃声がふたたび喧しくひびきはじめた。連合軍が天津を進発した8月3日には北京は静かだったが、糧食は飢餓状態にちかくなった。餓死するものも出た。
8月11日頃からは周囲からの攻撃は激烈を極め、7月初旬、中旬のあの最盛期を凌ぐものであった。篭城の人たちはとうとうだめか、と不吉な予感に襲われた。