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2014年11月2日

高遠そば-5-6(最終回) 荻野鐵人

救援の連合軍が、清国軍や義和団と戦いながら、ついに北京にたどりついたのは、8月13日のことだった。総勢1万6千の半ばを日本から駆けつけた第5師団が占めていた。その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などである。籠城していた柴中佐以下は、ほとんど弾薬も尽きた状態だった。
8月14日、午前2時頃、まわりの銃声がいくらか衰え、遠く東の方で砲声が轟くのが聞こえた。「そら援軍だ」誰かれかまわず抱き付いて背を叩き合う男たちもあり、止め処ない涙を頬いっぱいに流し、わんわん声をあげて泣く女もいた。交民巷では『共生共死』の激戦を経て、人間同士の連帯感が生まれていた。
篭城の人々は、興奮を静めながら、解放の期待に胸を振わせながら救援軍の入城を待った。柴五郎の胸には鶴ケ城の落城が思い出されたに違いない。高遠城の落城の際の祖先の無念さも去来しただろう。高遠以来の武士が3世紀の間に3回戦った篭城戦で今回こそは守り抜いたのだ。

14日、西太后の一行は西安に向けて脱出した。その午後、北京入城後最初の列国指揮官会議が開かれた。冒頭マグドナルド公使が、籠城の経過について報告した。武器、食糧の窮迫、守兵の不足、将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の戦い、そして公使は最後にこう付け加えた。「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」
 柴中佐が日本軍将兵と日本人義勇兵にこの言葉を伝えると、嗚咽の声が漏れた。誰もが祖国の名誉を守り、欧米の人々からも認められた誇らしい感情を味わっていた。

柴中佐はその後も日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許さず、その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となった。
 柴中佐には欧米各国からも勲章授与が相継ぎ、またタイムズの記者モリソンの報道もあいまってコロネル・シバは欧米で広く知られる最初の日本人となった。その後、総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、日英同盟の締結を強力に押し進めていくことになる。柴中佐と日本将兵の見せた奮戦ぶりから、日本こそは大英帝国が頼みにするに足る国と確信したのであろう。

お爺さんは黙ってしまった。眼には涙を溢れさせている。
「その後柴中佐はどうなったの?」
僕たちの質問にも答えようとしない。
「お爺さんはもしかしてその柴五郎の…」
「さあ、みんな帰った、かえった。また来いや、このつづきを話すからな、もしわしがその時まで生きていたらだが」

参考文献
1.土橋治重著「山本勘助物語と史蹟をたずねて」成美堂出版9・20・1987
2.中村彰彦著「会津に継承された武田の気骨」歴史街道6・1・1992
3.海音寺潮五郎著「西郷隆盛」1-14朝日新聞社1・20・1980
4.早乙女貢著「会津士魂」1-13新人物往来社12・25・1986
5.早乙女貢著「続会津士魂」1-2新人物往来社12・1・1989
6.星亮一著「修羅の都会津藩燃ゆ序章」教育書籍3・25・1992
7.長谷川つとむ著「会津藩最後の首席家老梶原平馬・その愛と死」新人物往来社2・25.1992
8.吉見周子著「会津戦争」秋田書店 歴史と旅17巻12号・1988
9.宮崎十三八著新発掘日本史会津人の書く「戊辰戦争」新潮45第11巻10号新潮社10・1・1992
10.岡本陽子著「秋月先生と剛毅朴訥」歴史研究NO3771992年10月号
11.村上兵衛著「守城の人」光人社発行7・29・1992
12.石光真人編著「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書中公新書5・25・1971
13.上原恵美子著「会津藩校日新館を訪ねて」歴史研究NO3791992年12月号
14.永岡慶之助「会津戦争始末記」歴史春秋出版株式会社6・10・1990
15. 田母神俊雄著「自らの身は顧みず」



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