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2014年11月5日

鳥人間《戸田太郎太夫》-3 荻野鐵人 影山芳郎


ベルツ花子の祖父

2 天明七年(1787)
安里周祥(あさとしゅうしょう)
弓を水平にして支柱をとりつけ、その上に鳥の形をした翼をつけ、足を上下に動かして飛ぶ羽ばたき機を発明した。これで沖縄の泡(あわ)瀬(せ)の海(中城湾)に面した断崖から空を飛んだ。「飛び安里」と呼ばれ、時の沖縄の王、尚(しょう)王(おう)から恩賞を賜ったが、地域の人には理解されず、「おかしなことばかりする」「へんな男だ」とうわさされ、永年住み慣れた土地から引っ越した。

3 寛政元年(1789)
浮田(うきた)幸(こう)吉(きち)(1757~1848)
岡山の経師屋(表具師)浮田幸吉が寛政元年に崖の上から飛んで人を驚かしたということが菅茶山(文政10年8月13目没年80)著『筆のすさび』に記録されている。(日置昌一著『話の大事典』)
浮田幸吉は一羽の鳩を捕らえて、その羽と尾の長さ、広さ(面積)を計り、体重も調べ、自分自身の体重と比較して、自分が飛ぶための翼の長さと広さを算出した。現在の航空工学でいう翼面荷重(飛行機の重量/翼面積)である。そして再三の飛行実験の失敗から幸吉の思考は「鳥が飛ぶ理由を知るには、まず風を調べること」「風の流れは、水の流れに似ている」と空気力学にまで向けられた。さらに幸吉は観察の対象を鳩から鳶(とび)に変え、「鳶の翼を動かす筋肉は体重の6分の1もあるのに、人間の胸部の筋肉は体重の100分の1しかない。したがって、人力による羽搏(はばた)きは不可能である」「鳶はなぜ羽搏かずに空に飛んでいられるのか?」「鳶の翼が他の鳥よりもずっと長いからだ」と気付き、鳶の両翼の中間に鳩や雀にはない筋肉が盛り上がっている事実を発見した。幸吉は二つの翼を接続させるために、檜(ひのき)材で自分の胴体と同じ長さの二本の柱をつくった。新しい翼には多少の上半角もつけられ、翼の表面には丸みを持たせてあったという。現在でいうキャンパーのことである。(図参照)
図面を完成させると実物の製作にとりかかった。まず太い竹を切って十分に陰干(かげぼ)しする。乾燥が不十分だと翼そのものの目方が重くなるし、完成してから桁と翼弦との継ぎ目などの細部に狂いが生じ、全体が歪む恐れがあるからだった。材料が乾燥すると、手頃な幅に割り、カドを削って枠をつくり、細い小骨(リブ)を三寸間隔に渡し、最後に丈夫な土佐紙を張って仕上げる。小さい時から紙と糊に囲まれて育ち、今や一流の表具師の幸吉にとっては、この製作は容易だったに違いない。幸吉が飛んだ、岡山の旭川の京橋の欄干から河原までの高さは10メートル以上あったが、滞空時間は4分だったという。そして数日後に『人間が鳥の真似をするとは不届き至極、また人心を騒がせた罪は軽からず』と百叩きのうえ、所払いの刑に処せられた。幸吉は駿府の安倍川原で再び飛んだが『入牢のうえ、永の所払い』と申し渡され、駿府から十四里離れた「見付(みつけ)」に居を移し、そこで91歳の波乱の生涯を閉じたという。



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