2014年11月6日
鳥人間《戸田太郎太夫》-4 荻野鐵人 影山芳郎
ベルツ花子の祖父
4 天保―弘化年間(1830一1847)
戸田太郎太夫(十二代)
《三河の宝飯郡御油宿(現豊川市)に三河の鳥人といわれる人が、飛行機の研究に取り組み、天保―弘化年間、音羽川河原(本野ヶ原という説もある)に櫓を組み、飛行実験を行ったという記録がある。》(『中日新聞』昭和52・10・28)
5 嘉永2年(1849)正月
戸田太郎太夫
A《豊川の歴史研究家、中根慶一氏が『最初の人力飛行者はドイツのリリエンタールではなく、御油(豊川)の人だった』とこれまでの定説をくつがえす新説を、42年間かかって研究し打ち出した。中根説によると、三河国宝飯郡御油村の戸田太郎太夫という人が、嘉永2年(1849)正月、西方の海岸で吉田藩主を前にして飛行を披露した。今から122年前のことだが、その時使用したのは、タタミ一畳くらいの大きな羽(竹枠に和紙を重ねて張った障子のようなもの)に尾がつき、木の車輪があってグライダーの前身といえるもの。強風を利用し、飛んだ時間は約15秒で距離は350メートルぐらい。……この人は、若い頃から研究心が強く、飛行もトビを見てヒントを得たらしい。八幡の西明寺(戸田家の菩提寺)裏の大宝山の頂上で飛んだり、大宝松と呼ばれた大きな松から飛んだりしていた。当時、この地方で綿、麻などが盛んに作られ、あたりは一面の綿畑。これが実を出して畑に干してある時は、飛行に失敗して落ちても大したケガも無いし、平原地帯で赤坂の山から吹き下ろした風がまともに通り抜けるので、よい飛行条件と推定される。このことが吉田の殿様に聞こえ御前披露したのが嘉永2年という。》(『東海日日新聞』昭和45・9・18付)
B《……飛行具は竹の羽に千枚張りをして、くるま井戸の車をつけ、原っぱに大きなヤグラを組んで大々的な飛行をしたことがあった。近所の人は、『太郎兵衛さんは千枚ヅルで江戸へ行くそうな』と大変なさわぎになり、見物に拝しかけたが飛行条件が悪かったのか見事に墜落、大ケガをしたという。》(『東海日日新聞』、昭和45・9・22日付)
6 安政4年(1857)8月
戸田源八
戸田家の源八が、34歳の時、鶴の型の飛行機を製作し、5間程の飛行台を造り、その上から飛んだところ、約300間程を飛行した由で、日本でのグライダーの創始者であろうという説がある。(中西久次郎著『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』昭和15年復刻版、昭和60年)