2014年11月11日
鳥人間《戸田太郎太夫》-7 荻野鐵人 影山芳郎
ベルツ花子の祖父
毎年、琵琶湖で行われる「目本鳥人間コンテスト」の1992年の優勝記録が232メートルであったから、この540メートルはもちろん350メートルという記録でも、抜群の記録で優勝できたであろう。
今は亡き日本航空界の権威者で飛行史の第一人者、木村秀政(日大飛行研究室部長)が戸田太郎太夫の飛行機に対して、新聞社から意見を求められ、「子孫が現存していて、しかもそれだけのいい伝えがあるのなら間違いないだろう。けれど技術的にはきわめて幼稚なものだったと思う」(『東海日日新聞』昭和45・9・22付)と問題にされなかったのは誠に残念である。その後、木村秀政先生が上記の「日本鳥人間コンテスト」を創設され、他界されるまで永年にわたり委員長をされたことも、皮肉なめぐり合わせかも知れない。
浮田幸吉の飛行時間が4分であったことは、翼面荷重、翼の表面の丸み(キャンパー)、上半角、さらに製作に当たっての細部への配慮など高度な航空工学的技術水準から、十分あり得ると考えられる。それもケイリー卿より二十年前、リリエンタールより百年前なのである。
戸田太郎太夫のグライダーは、浮田幸吉はリリエンタールが今日のハングライダーに似たものであったのに対し、車輪をつけている点が異なる。機の重心が下になり、より安定性はあったであろう。
戸田太郎太夫が浮田幸吉の飛行のうわさを聞いていたことは十分想像される。幸吉が岡山を追われて、太郎太夫のもとに行き二人で研究していたなら、吉田藩主も支援したならば……と夢みたくもなる。
ヨーロッパやアメリカでは空を飛ぶことは勇者の印と考えられており、斬新な研究が賞賛されたのにくらべて、幕藩体制は天才の頭脳の自由な活躍を奪ってしまった。それでも第二次世界大戦で目本の零戦の優秀さは、アメリカを悩まし、アメリカのロッキード2機で零戦1機に当たらせたことはよく知られている。浮田幸吉や戸田太郎太夫の技術が、後に零戦を生む母体になっていたのかもしれない。