2014年12月25日
藥、一服(その9)荻野彰久 荻野鐵人
源三が帰った後、部屋は急に静かになった。私は階下へおりて手を洗い口を濯(ゆす)いで、寝床に這入った。なかなか寝つかれなかった。源三の話が妙に耳に残った。私は、空想快楽について本気に考えてみた。
私は甚だしい肩(かた)凝(こ)りを覚えた。スタンドの鎖を引いて、電気を点け、電気マッサージ機を肩の下に当ててみた。ヴァイブレーションがブーウンと捻り声を立てた。恰(あたか)も戦闘機が空中を旋回しているのを、地上で聞いている音響のようであった。布団をすっぽり被った。息苦しい。顔だけ出して、布団の端を顎の下へ置いた。厚い布団の皺が、胸の辺で大濤(おおなみ)のような感じで見えた。鎖を引き電燈を消して、眠ろうと努めた。
源三は、沼向うまで一里半もある道を、大変だろうと思われた。彼の村の直ぐ近くに、深さ二米の大きな沼がある。下はひどい泥で、一度溺れたら、どんな泳ぎ名人でも出られないそうだ。昨年も老人が、鯉釣りに行って足が滑り、隣席の釣仲間が見守るなかを、溺れ死んだが、その死体が出せなくて大騒ぎとなり、結局二ヶ月後に浮いて来たそうだ。その沼が丁度道路の傍だから危ない。源三を、今夜泊めてやればよかったと、私にはそんなことが思われた。
そのうちに私は眠った。夢を見た。不快な夢だった。他人の恋人と恋し合ったという夢だった。妻は腹を立てて居る。妻は、いつか裁判官みたいな、だぶだぶの黒い服を着ている。私は何か変な理窟を言ったのを覚えている。然し自分は明らかに自分の行為を非難している。其の癖、其の新しい恋は、自分を酔わして居る。私はその恋人と寝た。次の瞬間、その恋人の顔は突然、醜い老婆に早変りしていた。どうした訳かその醜い老婆は、私の亀の子のように伸びた首根に股がって、
「夜の大空を飛んで廻るんだ!」
と、命令した。夢の中の私は、力を尽して反抗するのだがだめだ。私は屈辱の飛翔をする。餌を狙うウミネコのように、空中を、グルグル旋回させられていた。
海の上らしい処を飛んでいた。「見よ!」老婆は突然、命令した。私は下を見おろした。眼下は一面に大海原で、大きな濤が荒れ狂っていた。他には何も見当らなかった。夢の中の濤(なみ)は恰(あたか)も、野山をさ迷っている狂人のようであった。命令に従って私は、また夜の空を旋回していた。地上に、何か黒光りのする平らなところが見おろされた。「下を見よ!」と私はまた突然命令の声を聞いた。下には、昨年老人が鯉釣りに行って溺死した沼が、気味悪く光っていた。他には何も見当らなかった。
自分の首根に股がっている醜い老婆を振い落さなくちゃと、私はからだをもがいた。空中格闘が始まった。二人は、墜落してしまった。
ここで夢は醒めた。私はすっかり布団から乗り出ていて、頭は低く落ちていた。枕が背から首を押えつけている、この夢は覚めても、妙に頭に残った。
覚めて気がついた事だが、醜い老婆は、荒れ狂う大濤は欲望の表象で、沼は快楽の表象だったのかと、私は斯なに思って苦笑した。