2015年1月26日
akira's view 入山映ブログ 市民社会(6)
政治家に頼れないのなら「市民社会」が声を挙げる他はない、と書いた(2.26「財政赤字」)。カッコいいことを言うな、とお叱りを頂いた。(なぜかいつもこのブログ上ではなく、個人的なコミュニケーションを通じてであるのは残念だが。)具体的に何をどうする、という提言がなければ単なる評論家、口舌の徒ではないか、という訳だ。まさにその通りで、とかく資質を疑わせるものがある政治家であっても、何万人かの人に自分の名前を書かせる、というプロセスは通過している。それに比して、(このブログの筆者を含めて)評論家の言説は、発言あるいはその実効性になんら責任を問われることのないうえ、その正当性について何らの検証を受けていない。そんな意見にどれほどの価値が認められるか。その論者が、責任のとりようのない制度設計下の役人の言動に否定的な言辞を弄するなど、同じ穴の狢で片腹痛い、という意味だろうと思う。
敢えて反論をしたい。第一には「市民社会」に声を挙げさせる、あるいはそれに期待するというのはどういうことかについて。第二には、言説に答責性がないにもかかわらず、発言それ自体に意味がある、という点についてである。
まず、「市民社会」に賭けるというのは具体的にどういうことか。敢えて繰り返せば、市民社会とは、人々が任意に設立・解散・参加・脱退が自由であるような組織に参加する、支持する、支援する行為によって形作られる。だから、例えば筆者がこれぞと思う信念に基づいた組織を立ち上げて、それに対して物心両面での支援を求める、というのが選択肢の一つだろう。今となっては記憶している人も少ないだろうが、90年代の終わりに大前研一が立ち上げて惨敗に終わった「平成維新の会」はかなりこの主旨に近かった。しかし、市民社会は無数の意見の異なった人々によって成り立っている。原発賛成も反対も有りだし、消費税導入反対も賛成も両立する、というより、両立を許さなければ市民社会は成立しない。綺麗ごとをいわせてもらえば、「私はあなたの意見に反対だ。しかし、あなたがその意見を述べる自由は身命を賭して守る。」という言論の自由擁護の議論に似ている。だから、ある一つの立場にコミットする、ということは、そうでない立場の人を疎外することになるのは自明だ。だから、わが思うところは日本でまだひよわな市民社会組織の活性化そのものである筆者としては、選択肢はごく限られたものになる。
だから、もしかしてこの可能性に賭けるのならば、自分の意見・主張を唱導(advocate)したり、行動している民間非営利組織をまず見つけて、そこに人的・金銭的な支援をすることが第一歩だと思う。これまでのブログでそのいくつかは紹介した(11.13「民に出来ることは民に」1.31「市民社会(4)」)。また、新たなる可能性も示唆してきた(12.13「政策(2)」1.27「市民社会(2)」)つもりだ。
妙に弁解じみたブログになったが、第二の点についてはいづれ。
2009年 03月 02日