2015年1月28日
乞食と大学生(1)-1荻野彰久 荻野鐵人
或る休日の午后であつた。
救急車が玄関に着くと、七、八人の男が一人の青年を、手を提げ足を提げして、車から降ろしていた。
看護婦が、忙しげに走って往(い)った。
「先生!出血多量らしく、脈(プルス)も触れないんでございますが―」と、一人の看護婦が走って来て昂奮を、そのまま表情に出して、診察室の私に云った。
「自動車事故か? 手も足も、もう無いんだろう? じゃ急いで外科を教へて上げるといゝ! 急いでだぞ」
と、検査の試験管を握っていた私は、看護婦に命じた。
私がそう言った時には、男たちは、既に半死の青年を、治療室へ運び込んでいた。
「自動車事故じゃないんです! 剃刀で頸動脈を切ったんです!」
と、随いて来た一人の男が、意味ありげに私の耳へ呟いた。
「さあ――」と私は、青年の腕に注射をしながら、首を傾げた。
「先生! なんとかして助けて下さい!」と、四十五、六の母親らしい婦人が、取り乱した容相で、私の膝に手を掛けて言った。
「お兄さん!」と、二十ぐらいの娘が、母親の背中へ顔を埋めて泣き出した。
治療室は俄然、慌しくなった。頸動脈の縫合が行われ、強心剤点滴注射が始められた。血型検査がなされ、輸血が試みられていた。
「先生! 蝉山君はそんな事が出来る男じゃないんです。気の小さい内気な男です。他人の注射されるのを見るさえ眼を顰(ひそ)める人問ですから」
と、友人らしい色の黒い健康そうな大学生が云った。
「蝉山に、僕の血液もやりたいんです! 採って下さい」
と痩せて青い顔の大学生が、私の鼻先へ訴えた。
失血も量が過ぎると脳症を起す。蝉山君は、夜中二時頃から脳症を起して、暴れ出した。
点滴輸血も困難になり、多勢の人が、手を持ち、足を押えしながら続けるのだが、意識の乱れた蝉山君は、狂人のように昂奮した眼付で、
「何故、俺の死ぬのを邪魔する?」と、怒鳴り、
「女は、顔を見るさえ癪(しゃく)だ!」と、看護婦を蹴ったりした。暴れた後の、彼の心臓は更に衰弱し、全身冷汗に濡れ、輸血不能で血圧は益々下降して、最高血圧75の死線を上下していた。
人びとは、此方(こちら)でひそひそ、彼方(あちら)でひそひそと密議を凝らしていた。
憔悴(しょうすい)し切った母親は、枕元で病人の額の絞りタオルを取換へていた。