2015年1月29日
乞食と大学生(1)-2荻野彰久 荻野鐵人
四時頃、夜の底が白んで見える頃であった。親類の代表だと云って、背の長い一人の男が私を別室へ呼んで、
「先生の御親切や御好意は、充分有難いですが」と、前置きして、
「親戚一同相談の結果、もうこれ以上、治療は中止して戴きたいのですが」
と、具合悪そうな表情で云った。
「先生、ほんとに申し難い事ですが、ほんとに申し難いことを申して、気を悪くして戴くと困るのですが」
口説(くど)口説(くど)しく言った。
「どうしたんだ?」と、病室から出た私は、ハンカチで顔の汗を拭き拭き訊ねた。
男は、「新光さま」を自分の表情に再現させながら云った。
「それが先生、新光さまのお告げ程、有難いものはございませんね」
と、男は、奇跡でも肉眼で見て来たように眼を丸くして、新光さまらしく云うのだった。
「何事によらず、自然の法則に適う事をせねばならぬ、盲腸だって、生れながらにして切るようには出来ておらん、それを医者に行けば、魚か牛肉でも切るように"盲腸だ、さあ切れ、盲腸だ、さあ切れと云う。徳川家康時代の人は盲腸なぞ切らんでも、ちゃんと日本民族は亡びては居らんのじゃ、無暗(むやみ)矢鱈(やたら)に切るから、死ぬのだ。他人の躰だ、医者は患者を試験台にしている、現代の医者は自然法則に反したことをして居る。
人間と云うものは、どうしても、自然の法則に適った事をせねばならん、蝉山の新妻、美代子さんが家出したのも、その家、その夫に不満なればこそ、家出をするのじゃ、それを追おうとするのは、自然に反することじゃ、青年が毒を服(の)み、自分の血を出してまでも、死のうとしているのじゃ、つまり、その青年にして見れば、悩みに苦しんで生きては居られんのじゃ、死ぬが本統でもあり、自然に適うのじゃ、それをどうじゃ、他人の、現在流れている血を採って、助けようとする、それこそ、実に自然法則に反すると云うものじゃ、その医者は、自然法則と云うものを知っておらんのじゃ、お前たちが、その医者の処で、それを見て知らぬ顔をしているのも、同罪じゃ、いまに新光さまの罰が降るぞ」
新光さまは、こんな事を告げたそうである。廊下で看護婦の走って来る音がして、
「先生、蝉山さんの御容態が、いま――」と、青い顔をして云った。