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2015年2月1日

乞食と大学生(2)-1荻野彰久 荻野鐵人

美代子に逃げられた信次は、女体に対する欲求から、多少自暴的気持も手伝って、真夏の或る曇った夜、浴衣着で、ふらっと家を出た。
裏の細道を通っているうちに、何時の間にか、知らぬ路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であつた。探りながら歩いて行く足は、時ゝ凹みへ踏み落ちたりした。
時刻は、非常に晩くなったようであり、またそんなでもないように思えた。路を何処から間違ったのかはっきりしなかった。出がけに机の上のウイスキーを飲んで出たが、それがいま急に廻って来たと思っても見たりした。
星もない、と彼は顔をあげて空を仰いだ。
――と向うに、火玉が暗闇の空闇に上った。彼は、変なものを見たと思った。
よく見えもしないのに、先ばかり見ながら歩いていた信次は、路にあつた小石に爪(つま)突(づ)いてしまった。下駄の先端が欠けたのが、親趾先に感ぜられた。
彼は又、歩き出した。
――と又、同じ方向から、火玉が、三つ、四つ、勢いよく上った。青だったのか、赤だったのか、寧ろ赤に近かった。
彼は首を廻わして、周囲を見た。自分を包んでいるのは、暗黒一色であった。何も識別出来なかった。彼は立止って、盲人のように四周に耳を澄まして見た。
彼方此方で虫が啼く以外、何も聞えなかった。彼は引き返そうとした。彼は現在、自分の迷っている場所は、何処ら辺だろうと考えていた。そのうちに、いずかたともなく冷気を含んだ風が、さぁっと面を霞(かす)めて去った。彼は頭を二度震って意識を鮮明にしようとした。先方の火玉の上った方向を見た。今度は火玉らしきものは上らなかった。還へるに還へられず、進むに進めず、彼は迷い迷い一歩一歩と前へと歩いてみた。
彼は、アッ!と立止った。彼はいつしか火玉の上る場所へ吸い込まれてしまっていた。すぐ鼻先で、火玉が上ったからであった。彼は視線を其処に据えて、じぃっとそこを観ていた、一歩進んで又観た。火玉の上る場所は墓場であった。
(こんなとき!) と彼は思った。
(墓場に火が!) と彼は考えた。
彼は立止って、凝(じ)っと其処を見守っていた。
ポーオッと焔が立って、消えた。血に染(そま)った刃のような焔であった。
又焔が! 真赤な幟(のぼり)のような焔であった。彼にはそう見えた。
――と、乱髪の、赤い顔が、焔の影にくっきり写って、消えた。瞬時に浮び上って瞬時に消えた。
幽霊!と信次は思はず叫んだ。
次の瞬間、彼は、それを自分の酔のせいにした。
――と又、赤い焔が現はれ、黒い影がめらめら動いた。黒衣の幽霊が、こっちへやって来ると彼は思った。間もなく、それは彼の理性の中で否定された。それは、焔が上る度に、墓石がこちらへ影をつくり、それがタイムリーに起るので、影は映画のフイルムのように動いて感ぜられるのだった。彼の理性はそこまでは来ていた。
――と又、長い焔が上って、両眼玉の赤い顔が、闇に浮び上った。次の瞬闇に、その顔がパアッと光って、消えた。
――赤い幽霊!そんなに彼は感じた。彼はゾオッとした。
彼は背筋に何か冷たいものを感じた。背後から(黒い手が自分を掴みに来る!) そんな気がした。彼はグルツと後ろを確かめた。(巨大な二本の手が、自分を地の底へ引き吊り込む!) と彼は思った。手であたりを払って足を挙げてみた。彼は手の平で一度、自分の顔を拭(ぬぐ)った。濁った意識。鮮明な幽霊。そんな感じであつた。彼は頭を顫ってみた。酔は既に覚めていた。
(妻美代子が自分を殺して!) と彼の頭には、全く異分子的な妄想が閃めいた。
美代子の美しさの上に想像されるその情夫、それは許してはおけないと彼は思った。そんな想念は、突然彼に無理な勇気を強いた。
(よっし! 幽霊の正体を掴んで!) と彼は、変んな目的を考え出した。
(そんな処に、美代子が男と!) そんな考えも閃めく。
彼は雑草の生い茂った湿っている溝を、這(は)うようにしながら近づいて行った。溝の湿地から、強烈などくだみの悪臭がした。小さい虫が足の甲を歩いた。十米も溝の中を進んだとき、彼は墓場の中央の方を見た。其処には石工の仕事場らしい一寸した空地があった。其処に火が焚かれてあった。火玉は実にこれだったのであった。焚火をしているのは、乞食の恰好をした女であった。



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