2015年2月2日
乞食と大学生(2)-2荻野彰久 荻野鐵人
真夜中に、墓場で女に出逢う程気味悪いものはない。幽霊と思ったのはこの乞食女であった。彼は、火玉の上る墓場に来たと思った。彼は浴衣の裾を掴んで、墓場の鉄柵を股がって越した。
彼は、ビル街のギャングに迫る警官のように、墓石の影に身を隠しながら忍び寄って行った。彼は、誰かの墓石の前に身をすり寄せたとき、思わず墓前供養の花束を握ってしまった。(墓場の花を俺は掴んだ!) と彼は思った。縁起でもない、と彼はそんな事まで思っている。彼は、燃え上る焔に自分の白い浴衣の仄(ほ)んのり染まるのを知った。
墓場の焚火を見た時は、女乞食が夜更けの寒さで、焚火に安全な墓場を選んだのだろうと思った。(あ、この乞食の事か!) と彼は、例の噂を想い起した。――この女乞食は、長い杖を肌身離さず持っていて、自分を軽蔑したり、無礼なことを言ったりすると、杖で相手を擲(なぐ)りつける、かと思うと、乞食女に似合はぬどこか気品があると言うので、「乞食の局(つぼね)」と渾名(あだな)まで付けられていた。其上この女乞食は、占上手で評判でもあった。然しそれは、乞食と言う特殊環境の人生体験から「占」が出来るのだろうと言う人もあった。
美代子が家出したときも、飼猫が居なくなったときも、母は占に通いつめていた。恐らくこの女乞食であろうと彼は思うのだった。
墓場の影に身を隠していた彼は、焚火をしている女乞食の様子を暫く眺めていた。
公孫樹(いちょう)の枝間に、細紐が渡され、干物がしてあるのが、時どきの風に動いていた。
女乞食は焚火を背に、此方に向って、突然裸躰になった。
アレ、アレツと彼は思いながら(虱(しらみ)でも取るのかな)と思っていると、女は下着を全部、白無垢のものに着更えていた。彼は驚いた。一枚一枚着てゆくのは、穢い襤褸(ぼろ)ではなくて、清潔無垢な下着であった。(この女乞食は!) と、彼は奇異な感じに打たれた。更に彼を驚かしたのは、その清潔な下着の上に、女は、薄穢(うすきたな)い襤褸を纏いかけていることであった。乞食の容姿に身を隠しているのである。
(これは、従(ただ)の乞食じゃない!) と彼は思った。
乞食女は、焚火の旁で、それだけの服装を着更えると、旁の杖を一度掴んで、四囲を見廻した。墓影の彼はどきりとした。自分の体の露見を怖れたからであった。身を更に縮めた。
占女は、杖を其儘又元の場所に置いた。女は墓の台石の処から、トランクを持ち出して来て、脱いだものを一枚一枚畳んで仕舞っていた。
チャンスをねらっていた彼は、二つ程咳払いをして、思い切って焚火の方へと歩いて出た。
「お前は何者だ!」と、女は杖で彼を擲ろうとした。喫驚したのは、女であり、同時に又男でもあった。
「僕は、路を迷ったんだ」と、小心者の信次は、下を見て言った。
占女は影を避けて、焔で照らすようにしながら、彼の顔を凝視していた。
「お前は、何処に住んで居るんだ?」
「いやあ、僕は、あんまり遠くじやない、僕は、悪者(わるも)んじゃない、学生だよ」
「あ、学生さんか、闇に迷ったんですね。占なら、夜はやりません。夜はわたしは、人には逢はない事にして居りますから」
と占女は、相手の顔貌を観、学生だと聞いて、突然、詞使いを改めて言うのだった。
「こちらへ来て、火にお当りなさい」
女主人は材木の切端を二つ、焚火に投げ込みながら言った。火の中へ黄金虫が一匹飛んで来た。名も知らぬ小さい虫が、焚火の上を飛んでいた。
彼は黙った儘、鋸屑(のこぎりくず)や古板の積んである場所を廻って、焚火に近づいていた。
夜更けの墓場で、焚火を前に、信次と占女は、手を翳(かざ)していた。墓場の焚火は、時ゝどきパチパチ音を立てながら燃える火玉を、闇夜に上げていた。
「学生さん、お母さんは御丈夫?」と、占女は、存命ですかの意味でそう訊(たず)ねた。
「うん」と、信次は無愛想に答えた。
「何処へ行く路を、迷ったの?」
「うん、えへえ、ちよっと」と信次は、訊(き)かれて具合悪そうに、変な笑いかたをした。
「どうも、面白くないからね」と、彼は又笑いながら言った。
「何がそんなに?」と、占女は何気なく訊ねた。
「うん」。
「女の方ですね」と占女は、信次の顔を覗き込みながら、
「あなたは、蝉山信次という方ですね」と、一度に話を飛躍させて訊ねた。彼はドキリとした。(占いって、矢張り!) と彼は女占の顔を見、眼を丸くした。
「いゝえ、あなたのお母さまが、美代子さんの事で、度々御見えになりましたから」と、女占は、眼を伏せた。
「ま、どうぞ、そこの板敷にでも、お坐り下さい」そう言って占女は自分も黝(あおぐろ)んだ角材の端に腰を卸した。
「あなたは?」と信次は、若者らしい猟奇心から、女占の顔を見ながら、訊ねた。
「わたしは、乞食の女占です。御覧の通りの乞食女です」
と言って、微かに頬笑んだ。
「へええっ!」と今更のように驚いた信次は、自分は、真夏の夜、夢を見て居るのではないかと、思はれてならなかつた。彼は自分の大腿の筋肉を一寸抓(つね)ってみた。
信次は、墓場での此の女占との邂逅が、現実離れした何か幻想的な感じを受けた。信次は四囲を見廻した。遠くの住宅から二つ三つ灯が見えた。彼は人心地がした。
「貴方のお母さまは、私を確かな占女だと思っていらっしゃるらしく、すべてを申されました。それで貴方のことは識って居ります。美代子さんが派手好きで、浮気っぽい女性であることや、池田さん、山本さんと次から次へと男性を、漁る話なども伺いました。そんな美代子さんを、あなたは忘れられず、悩んでいらっしゃるお話も承りました。わたしも、其の美代子さんには同情出来ません。大変失礼を申し上げるようですが、自分の息子として、こうしてあなたに御目に掛って居りますと、わたしは多くの事を思います」
と言う女占は、諦め切った静かな調子の声で言った。