2015年2月6日
乞食と大学生(2)-6荻野彰久 荻野鐵人
酔も覚めた信次は、少し冷えて来たと思った。墓々はどれも、盆の花束が供えられてあった。信次は、焚(たき)ものを眺めた。焚(た)くものももう尽きて来て、木屑、枯葉しか残っていなかった。
彼は起って、墓前に供えられた花束を抱えて来て、焚火(たきび)の傍に投げるように下した。彼は、何処となく自分が運んで来たそれらの花束を眺めていた。唐人花、梔子(くちなし)、桔梗、山百紅合、香の花、蝦夷菊、千日草等の供花の中に、華美な赤いグラジオラスだけが殊更に、目立って感ぜられた。そんなとき、彼はふと街で見る邪慳な娼婦が、美代子として心に浮かぶのであった。彼は、其の赤いグラジオラスを引き抜いて、それを、燃える火の中に、憎々しく投げつけた。
「あ、いけません。どうぞ、墓の供花を燃やすのは、おやめになって下さい」と女は、火が燃え移った花束を、焚火から引きながら穏に云うのだった。
「わたしはね」と局は又、静かな調子で語りはじめた。
「わたしは、行った先々の墓前で、闇夜に、火を焚いて上げるのが、好きでございますよ。これが、まア、わたしの唯一つのお道楽と申せましょうか、墓の中の人々の、楽しかりし過去の頁を、わたしの焚火の光で照らして上げたい、言わば女心なのでしょうか、すると、墓の中の一人一人が、こう何と申しましょうか、お互いがすっと昔からの識り合いに思われて来るんですね。
淋しく心が沈んで来ると、わたしは、その人達と昔話を語り合っている気持になれるのです。そう考えて来ますと、死んで往(い)った墓の人々の誰もが、何かこう、悲しい運命を荷って来ているような気がされましてねエ。人生といふ暗いトンネルを、そうです、暗いトンネルを、息苦しく通り抜けて来た人々のように思われましてね」、
と局は、微かな溜息を洩らしていた。
「おばさんは、どんな過去だったんですか?」と、邪気の無い信次は、眼を輝かせながら訊ねた。
「わたしの過去でございますか?」と局は微笑をたたえて言った。
「皆さまのに比べれば、わたしなんぞ、夏の野の数多い虫の中での、不倖な一匹の虫でございますよ。極く平凡な生活を夢見て、果されなかった女でございますよ、聞いて戴いても、何も面白くもございませんから、已(や)めましょう。今まででも、愚痴めいて、どなたにも申したこともございませんから」
「でも、どうか話して下さい。おばさんのお話を聞いて、僕は、美代子を善意に解してやりたいんです」