2015年2月12日
スターリンへの端書(1)荻野彰久 荻野鐵人
医者も数がこんなに増えては、古代人のように、不幸な人々には無料で往診という訳にはいかなくなった――ハンカチで額の汗を拭き々々医者は山道を登りながら、そう考えた。
涼風の、顔を撫でる峠に辿り着くと、医者は、あ-あと大きく息を吐きながら、松の樹の大蛇のような根株に腰をおろした。遙か下の方に点在している村々が眺められる。
子供が病むとうちわが揉める――医者の払いにも思い悩むからであろう。誰かが私の傍で、不幸な話をしていても、私は眼をつぶって、美術館の美しい風景画でも頭の中に想い浮かべることにしょう――こう医者の決心が成就すると、どっこいしょと、医者はまた立ち上り、往診鞄を提げ、小石の多い曲りくねった小路を村へ降りていった。
赤いポストの前に店屋があって、色褪せたパナマ帽から味噌醤油、アロハシャツからブラウス、サンダルまで、大都市のデパートのような雑貨を商っていた。その二、三軒先が農協組合になっていて、そこを左へ折れると、櫟の大木が、乾いた地面に緑の絨毯のような蔭をつくっている。そこを、谷あいの川に沿うて、登ると、山の中腹に百日紅の咲いている大きな二階家が、患家――村会議員の栗山善蔵さんの家であった。
ヒンヤリしたこの谷間の空気は、市街地とは10度内外の気温差はあるだろうと感じられた。
前に涼しく流れ去る川を眺めながら、善蔵さんの門口へ入ると、南側に離れの隠居家があった。縁側で、鼻から滑り落ちそうな眼鏡をかけた老婆が、色の褪めた木綿の毛布を、注意深く展(ひろ)げている。やがて老婆は、舌先でベロッと濡らした指頭を、毛布の上に構えて、じっと見つめた(蚤!) 皺に包まれた老婆の眼球は、クリッ、クリッと右に左に動いた。(蚤が飛んだ!) 老婆は鶏の脚のようなしなびた掌でパタッパタッと毛布を叩いたかと思うと、その掌をぎゅっと圧えつけた。調べるように掌は静かに々々上げられ、老婆の眼鏡は近づいた。(逃がすものか!) と老婆は手早く指頭で圧えた。圧えてねじ込むように廻わすと二本指でつまみ上げ、眼鏡をずり落しそうに鼻先へ押しやり、上眼使いに、遠くから肉眼で見つめた。(蚤を捕った)老婆は満足気に人さし指の先に載せると、親指の爪を合わせて、ギユッとつぶした。