2015年2月18日
スターリンへの端書(5)荻野彰久 荻野鐵人
「どうぞ御手を」と善蔵さんは立ったまま云って、娘と母親の居る方へ、医者が告げた病名を、大きな声で話していた。
「肋腹膜炎、ねエ」と善蔵さんは、腑に落ちないというように、顔をそむけていって「おたけ、あまり聞かぬ病名だナ?」と云うと母親は一寸首を傾げる真似をした。すると善蔵さんは信じ切った表情に戻ると、「―だが、現代医学じゃ、癒るわさ、何んでも信じることが第一だ」と言葉を切った。傍の母親は、夫のそんな話にはこだわらず、医者の顔を見上げて、
「先生、この病気は、そんな怖ろしい伝染力があるのでしょうか?」と、急に更った顔で訊ねた。
返答に窮した医者は首を傾けて黙っていると、
「伝染力が強かろうが弱かろうが、お前、俺たちのつくった子だ、仕方がないさ!」善蔵さんのアクセントには、何か抵抗的な響きがあった。
「わたしだって、そんなこと、申してやしません、一緒に寝ると、伝染するから嫌だ、と剣太郎さんが云った、というじゃありませんか!」
母親の双ツの眼は、何かしら烈しい復しゅうに燃えたように見えた。
「そうか、剣太郎君がナァ」と善蔵さんの声はさびしそうに尻下りに響いた。
「病源性のある伝染病と義理人情と混同するのは、アフリカ土人以下だと云うんですって!」母親の眼に涙が光った。母親の顔も、遠くを見ている。
「あっはははは」善蔵さんは突然、太い声で笑って、
「アフリカ土人以下か」と溜息まじりに一度云って「そばにも置いちゃ貰えんか、あっははは」善蔵さんの笑った後の顔には一種の影が刻まれた。
「ですから、キッパリ忘れるように、わたしは鷹子に云うんですけど、この娘ったら!」と母親はブルブルと頭をふって云った。
寝床に横たわったまま聞いていた娘は、突然、泣き出した。
母親は病人の布団に顔を伏せてしまう。
下を向いて黙っていた善蔵さんの表情は動かなかった。
「そんな男と知ってもこの娘(こ)ったら!」と母親は、唇を固く結んで、布団の下で娘の手を握りしめる。
母親の泣き声より高い声で、娘は更に泣く。布団綿にさえぎられて、湿った娘の泣き声は、畳床に微細な振動を与えた。
「あっはははは」と善蔵さんは突然大きく腹をつき出して笑って,
「伝染する病源菌があって愛して貰えないのなら、いいじゃないか、いえやしき売り払っても、その病源菌を根絶して頂こうじゃないか、あっはははは」と笑ったかと思うと、不意と善蔵さんは笑声を呑んだ。
「わたしは、この娘(こ)と二人、首でも吊って、死んでやりたい!」と母親はヒステリックに泣く。
父親は、首を廻わして、医者の顔を見た。
「先生、どうも失礼を致しました。女という奴は、一筋に思うんですナ、どうも、どうも……」と忘れ流すように云った。
「喧嘩には、相手の言分(いいぶん)もあるものだ、ナ、泥俸だって三つの理由とか云うで、ナ」と母親の後頭を見て云った善蔵さんは、頸を戻して、遠くへ視線を投げる。
「なァに、向うさまだって、悪くはないさ、結局は、お互いが貧困だということさ、人と人、村と村、同じことさ、貧困のヒズミさ」
「追い出されたら、ヒガムに決まっています!」