2015年2月23日
スターリンへの端書(8)荻野彰久 荻野鐵人
「さあ、でも、こんなところではね」と医者は、暗黒の中で四囲を見廻しながら云った、
「咳も出るんです」娘は又、突然こんなに云った。
「そうかね、でも、ここじゃね」と医者は診察をする時間の間、どこか借りられる場所はないものかと思いめぐらしていた。
しかし、医者は、奇異に打たれて一寸不安にされた。――若し、あれが実母ならば、親があり、住居がある娘が、何故、自分の診察を親に隠れて、乞うのか? 医者はありふれた例から頭の中へ竝べてみる――村の若者に悪戯をされ、性病に汚染されて、それがひどくなり、今では、娘自身の考えでは、どうにもならなくなったのであろう、と空想は医者をそこまで連れていった。
道端で闇の診察をしながらの医者の質問に対して、娘のとぎれとぎれの回答は、彼を安心させるのであった。――女は十八才の人妻であった。高校出の彼女は、一年ほど前に父のすすめで、岩戸村から、この浜田村の、剣太郎という青年のところに嫁いで来たのだったが、姑の嫌味を含んだ叱言の上に、不慣れな百姓仕事や浜仕事に、近頃は、咳や熱を見るほどに、衰弱したらしいと云うのであった。
医者の治療を受けたいと乞えば、姑は富山の置き薬や弘法さま、とかつぎ出し、それもやって見たが、一向に直らぬと云うのであった。
以後、医者は、ほぼ、同じ時間に、同じ場所で、同じ方法で彼女と診察の闇取引を、五回ほど、する破目になるのだったが、どんな話になったのか、今日、岩戸村の彼女の実家、善蔵さんから使者が来たのであった。
「先生、鷹子の診察は、もうすんだかのう?」戦死した息子の写真を片手に、老人が医者を見上げた。
済んだと医者が、答えると、
聞きもらしたのか傍のお婆さんが、「済んだ?」と老人の顔に訊ね、「今度はまたいつ来てくれるのか?」と医者を見た。