2015年2月25日
akira's view 入山映ブログ オバマ大統領のプラハ演説
シーザーの「来たり、見たり、勝ちたり」ほどに諳んじられている訳ではないが、歴史に残る名演説と云われるものは少なくない。ただ、わが国の歴史の中でそれを求めるといささか困惑する。尾崎行雄、永井柳太郎といった雄弁家の名前を耳にしたことはあるが、そのテキストが人口に膾炙したりしているか、というとそんなことはない。「巧言令色はすくなきかな仁」に代表されるように、古来東アジアの文化というのは名演説を求めなかったのかもしれない。戦後の歴代首相で、その印象的な演説をもって記憶される人がいないのはその何よりの証拠だろう。マンガ雑誌を得々として振りかざす、というのは別にしても、である。
最近ではケネディ大統領の例の「私はベルリンっ子だ(Ich bin ein Berliner.)」が有名だが、今回のオバマ大統領のプラハでのそれも格調の高さと内容の的確さでひけをとらないだろう。核軍縮の必要性と米国のコミットメントを中心としたものだが、その格調の高さを別にして、最近の日本を取り巻く情勢とのコンテキストからは、いささか考えさせられる内容を含んだものであったことも確かた。
具体的には、オバマ大統領がNATOについて、憲章第5条を引用して、「加盟国のどの一国に対する攻撃であっても、それは加盟国全てに対する攻撃である」、だからNATO加盟国のアフガニスタン派兵は必然だ、と明言したことである。最近の北朝鮮のテポドン騒動のときに、米国国務省高官は「アメリカを標的にしたものでない限り」応戦はしない、と述べた。日米安保の根幹に関わる発言だったと思うのだが、もしかしてこれが米国指導者層の共通認識だとすれば、NATOとは何たる違いだろう、と思う。人工衛星か、ミサイルか、非難決議をめぐってさえ曖昧な落着となった事態だから、こういう玉虫色(?)の発言も大して問題にされなかったのかもしれない。ちなみにオバマ大統領のプラハ演説の中では「われわれは協力して北朝鮮に路線を変更させるべきだ」とはっきり述べているのだが。
あんな素晴らしい演説を聞いて、そんなことにこだわっているのは大局観に欠けるのかもしれない。ただ、その昔「トランジスターの商人」だと揶揄された日本の首相がいたが、基本的には経済大国であるとは認識されても、政治大国、いわんや道義大国とは認識されていない点では現在も大差はない。イラク戦争に際して、カネだけ出したら無視された、といってあたふた法律まで作って自衛隊を出した。およそ、理念や信条ではなく、相手の顔色と反応によって外交姿勢が変わる。これで経済大国でさえなくなったら、どんな扱いを受けるのだろう。
2009年 04月 13日