2015年3月2日
サーカスの親方(1)-3荻野彰久 荻野鐵人
佐々木の五、六年先輩に川端さんという人がいる。川端さんは生物学を専攻したんだが、近頃、哲学科へ又入って来た人で、ぼくたちはよく川端さんの研究室へ遊びにいった。佐々木とは、ぼくはその川端さんの研究室で識り合った。佐々木と川端さんとは前から知り合いらしかった。その川端さんから聞いた話だが、佐々木は、実は訳があって、そんな馬鹿丁寧な謝罪をしたのだそうだ。それは相手のうちに「女」があると探知すると、必ず佐々木の用いる常套手段なのだそうだ。翌日病院の検査室で患者の小便を調べながら中村に訊いてみた。
「何と云って謝って来たんだ?」
佐々木が中村にした「謝罪」の性質と方向についての川端さんの話を思い出したので訊ねてみたのである。
「いやあ、ぼくも乱暴だったよ」と、人の好い中村は微笑を浮かべて後首を掻いていた。
「ううん」と、ぼくが空気の抜けた返事をすると中村は、「<これから、ときどき遊びに来るぜ、いいかい>と云っていたよ」と笑い、佐々木を却って褒めていた。
こういうときの中村の寛大さは、ぼくにはよく理解できなかった。が、ぼくは黙って立っていた。すると、中村はぼくの意見を求めるように、突然、「アレを是非、紹介してくれと云うんだがね」と、ぼくの顔を覗き込んで云う。
「アレ?」とぼくが首を傾げると、中村は声を出さない笑い方をし、検尿の試験管を握ったまま研究室の方へ走っていった。
中村の「アレ」と云ったのは、自分の許嫁のことだった。(佐々木が中村の許嫁をね)と、ぼくは腹の中で云って、そのときはそのまま中村と別れた。
中村が、自分の許嫁を連れていって、佐々木に紹介したかどうか、ぼくは、中村にそれ以上訊ねなかった。
相手の定まっている他人の許嫁をどうするつもりで、佐々木は当事者の中村に許嫁の純子を紹介しろと執拗にせがんだのか、ぼくは川端さんの言葉を又思い起した。――佐々木を知るには、佐々木の行状を知らねばならぬ。女を一晩抱くともうその女はいやだと云い出す男である。だから、新しい女を入手するためには、どんな犠牲でも払い、手段を選ばない男である。母親の傍で寝ている娘の部屋へ、茶の間の窓をはずして忍び込んだこともあるし、階下の玄関の物音に、針を呑まされる思いで、二階で人妻を犯したこともある。兎に角、自分の本能を果そうとするときの佐々木という男は、まるで犬畜生も同然な人間だよ――と川端さんは云っていた。