2015年3月3日
サーカスの親方(1)-4荻野彰久 荻野鐵人
これは当事者たちから聞いた話だが、栄養士の免状をとるために田舎から出て来ていた純子(佐々木が中村に紹介してくれと云った娘)は、品川の学校へ通っていた。自分では東京はよく識っていて怖くないなどと、快活なことを云っていたけれども、中村の友達の前に出たときの彼女は、借りて来た猫のように、小さくちぢかんでいた。
或る夜、あれは確か、晴れ続きの土曜日であった。お互いは学生なので土曜の夜だけ、会うことにしていた。その日純子は午後四時頃になって寄宿舎にいる友だち二、三人と、日比谷劇場ヘバーグマンの映画を見にいくことに急に話が持ち上り、それに、舎監先生も一緒に出かけたのだったが、館に入る前に腹ごしらえという訳で、途中で飯を食べに入ったので、帰りは十時過ぎになってしまった。純子は映画を見ながらでも(電話でもあれば掛けておくんだけど)と、下宿で宵から待っている筈の中村が気になって仕方がない。映画の筋も何も頭に入って来ず、とき折、スクリ―ンに大きく写し出されるバ―グマンの顔だけが印象に残ったという感じで、館を出た。
みんなには途中で別れて、そこからタクシーを拾うと、中村の下宿へ走らせた。純子は腕の時計を見た。11時10分前だった。この時計は止っていやしないかしらと、時計を腕のまま左の耳へ近づけ、音を調べた。時計は止まってはいなかった。11時10分前に間違いはない。
車から降りると赤門前の中村の下宿の2階を見上げた。二階の同宿の、他の人たちの部屋は灯が点っていたけれども、中村の部屋だけは、灯が消えて暗くなっている。純子は別に何の疑問も挾まなかった。インターン学生である中村は周りが騒々しい宵のうちは眠って、みんなが寝静まった12時頃から起き出して勉強する。そのことを純子は中村から聞かされていた。下宿の勝手を知っている純子は、裏の木戸口へ廻ってなかへ入り、足音を忍ばせて、階段を上り、中村の部屋の前に来た。やはり、灯は点ってなく暗くなっていた。中村の部屋を挾んで、東隣りの部屋では、卑俗な唄声が聞こえ、西隣りの部屋では笑声がざわめいていた。暗くなっている中村の部屋の障子を純子は静かに開け小さい声で、「お休みになったの」と、万年床の中村の枕もとへ坐りながら囁いた…。
ところが、純子が口を近づけて囁いた布団のなかにはなるほど、男が横たわっていたけれども、それは恋人中村ではなく、ドンフアンの実存だと噂されている例の佐々木だったのだから、話は不幸なことになった。