2015年3月10日
サーカスの親方(2)-2荻野彰久 荻野鐵人
客を送ったあと、庭の隅の青桐に片手をかけて立っている妻の姿が見えた。白いハンケチを持った手が、ときどき眼を抑えていた。
(あれが人違いでなく、ぼくがほんとうに死んだとすれば、妻はどうするだろう?ぼくと結婚したことが邪魔になって、よい口もないであろうし……)
と、ぼくは妙に妻が不(ふ)憫(びん)に思われた。
「勿体ないナ、あんな若い女を―」と、先刻の酔っ払いが、未だそこに立って、ぼくと同じく、庭の妻を眺めながら云う。(ぼくはそのときはまだ気づかなかったが、これが例の佐々木であった!)
「死ぬものは死んださ、早くお入り、風邪を引きますよ」
祖母が、妻の方へ声をかけていた。
「そうさ、死んだものは死んださ、ハハハハ」と例の酔っ払い(佐々木)が、祖母の声を受けて笑った。男の声に塀の方へ一度視線を走らせた祖母は、妻の手を引いて、うちのなかへ入ってしまった。
「でも、人を助ける医者が変死するとは何か皮肉みたいでさ」もう一人の酔っ払いが、おだやかに云う。
「お前は馬鹿だナ、医者だろうが坊主だろうが、地獄で呼びに来りゃ、行かねばなるまい」
「何だと?死んだ人間が天国へ行くのか地獄へ行くのかどうして解る?」
「だってお前、楽しいこの世を捨てて死ぬような奴は、地獄行にきまっているじゃないか」
「この世が楽しいって?」
「そうさ、女あり酒あり、お前は楽しくないのか?」
「楽しい?」
「だって、この世が楽しくなければ、お前は馬鹿だよ、あっははは、それは女にもてないゴリラだよ」
「女さえあれば、お前は楽しいのか?」
「当り前じゃないか!じゃお前は、女が傍にいても楽しくないと云うのか、楽しくないというのなら、じゃ何が悲しいか、云って見ろよ、ふううん。云えないのかそうれ見ろ、大体、他人に云えないような、お前そんな悲しみなんて、そんなもの、センチメンタリズムよ、あっははは、それとも――そうだ。君はですナ、秋、澄み切った青空を眺めたら、(変に悲しくなる)というんだろう、それから……西の稜線に太陽が落ちそうになると、君は(哀しい)と思うんだろ、それから……あっははは。なんですか、そんなもの、自然現象じゃないですか、……それとも、アンタは、他に何か真に悲しいことがまだ存在すると云うのか、あっははは、どれ、云って御覧よ、お前の世界観を一つ伺わせて貰おうじゃないか」