2015年3月18日
サーカスの親方(2)-8荻野彰久 荻野鐵人
唇をふるわしている幸島は、黙って立っていたが、
「俺はそんな事云ってやしないよ」と云った。
弱々しい幸島の声とは対蹠的に、あたりに鳴り響く佐々木の声がした。
「じゃ、何だよ。一つ云って見ろよ。お前のその哀愁とやらを伺おうじゃないか。早く云って見て下さいよ。俺はさっきから小便が出たくて困っているんだから」と佐々木が身ぶるいしながら云っても、幸島は黙っていた。すると佐々木は例の入を侮蔑したように顎を突き出して云った。
「だいたい他人の前に公開できないような、そんな哀愁はですナー」と佐々木が云おうとすると、幸島がそれを遮って、小さい声で云った。
「哀愁じゃない、悲哀だ」
「何だ、同じことじゃないか、そんなら『悲哀』でもいい――客観視出来ないような、そんな悲哀は――」と佐々木はここで一度息を入れると、自分の鼻の上に二ツの拳を高く重ね、それを相手に示しながら、
「そんなのは自意識過剰から来る感傷じゃないですか、つまり何じゃないですか、『俺は、俺は』と天狗になった自分が通らないから『悲しい』じゃないですか!あっははは」
「君は、この世が歓喜に充ち満ちているように云うけど、俺は――」と幸島が云うと、
「だから、云って見ろよ、観兵式のようにずらりと、ここに一つ並べて見て下さいよ」と、佐々木は人差し指で地面を示しながら云った。
「観念的な事ばかり云っても仕方がない、一つ具体的に云ってみて下さいよ。何が悲しいのか、はっきり云ってみて下さいよ。例えば腹がへって『悲しい』とか、出世が出来なくて悲しいとかさ」と佐々木は、ふざけてレインコートの尻をまくる真似をした。