2015年3月24日
akira's view 入山映ブログ 新時代の公理
誤解を恐れすに単純化して言えば「正しく問いかけることは半ば正しい答えを得たに等しい」という信念が受け入れられていた時期があった。一種予定調和といってもよいのだが、正解というのは常に一つにあり、かつ一つに限って存在する、という楽観論である。正解が複数存在するように見えたりするのは問いかけそれ自体が誤っているか、論理的過ちを犯している場合に限るのだ、という立場だ。これは限りなく人間の直感に信をおいている、という限りにおいて、旧き良き時代を代表した考え方であったといってよい。
その典型がユークリッド幾何学で、点は位置のみあって大きさがなく、二点間の最短距離は直線一つあって一つに限る。また、平行線は交わらない。という約束事(公理系)を前提にした議論だ。人間感性の「常識」に合致していることもあって、これが悠久の真理である、と考えられていた時代が久しきに及んだ、というのは人の知る通りだ。ところが非ユークリッド幾何学、つまり約束事を否定してみたら何が起るか、どんな論理的矛盾が発生するか、と考えてみると、平行線が交わったり(鉄道レールが遠くに行くと交わって見える。五感とさして違和感はない。)するお約束をしても、それはそれなりに辻褄のあった論理体系が構築できる、というあたりから始まって、新たな数学的地平が広がったのは人の知る通りだ。
これが無機的な、純論理的な世界に留まるかというと、どうもそうでもないらしい、というのが近代における社会科学の四分五裂を招いた、というのも当たらすといえども遠くない。浅学非才がこれ以上細部に立ち入るのは控えるにしても、多数決は絶対の真理か、とか、悪法もまた法か、とか、さまざまなかたちで問題提起がされているのはご承知の通りだ。ところが、このテの話には容易に想像されるようにすっぱり割り切った結論というのはでそうもないし、出れば出たで、一種デマゴーグのようなことになりがちなのもわれわれは歴史に学んでいる。で、人間が試行錯誤の末にたどり着いたのが、言論結社の自由を中核とする市民社会のレトリックだった、といってもさして誤りはないだろう。(もちろんこれに代えて一億火の玉のファシズムという選択肢もあるが、これについては再度詳論はしない。)
多元的価値観の容認というのは、例によっていうは易しく実行は難しい。「僕は君の意見に反対だ。しかし君が自分の意見を述べる自由は身を呈して守る。」などという英雄的な身のこなしを常人に求めることの難しさ、といってもよいだろう。英雄的であることは期待しない。しかし、最低限の意見を異にする人の権利を守ろう、という知恵が(たとえわが身に降り掛かった時の安全弁としてであれ)保証されねばならない。それができないとアウンサン・スー・チー女史があちこちに発生する。
その意味で、時の権力者が自分の意に染まない多元的価値観を封殺しようとする試み、制度的な締め付けには早出まわしに対抗しておかねばならない。気がついた時にはがんじがらめではそれこそ遅きに失する。今回の公益法人制度改悪に筆者が再三危惧の念を表明する理由はそこにある。
2009年 05月 16日