2015年3月31日
サーカスの親方(3)-3荻野彰久 荻野鐵人
(俺は!)> と幸島は、逃げ出そうとする佐々木に、監視の冷ややかな眼を光らせながら考えた。(――俺は、動物と異なって人間である俺は、たとい一夜、俺の妻を佐々木に渡すにしても、それは人間が自分の意志を自由に行使して、はっきり、『本能』」に反抗してやったというだけのことじゃないか、俺が妻を愛していないということにはならない) 幸島の足は軽やかに運んでいた。幸島は、敵の強大な戦艦に突進していく戦力の弱い特攻隊員のように、思わず心に大きく叫んだ(人間万歳!) 幸島は佐々木を見た。佐々木は歩いていく。<佐々木は臍から下だという、俺はいや、首から上だと云う>幸島は歩いた。(俺が――)と幸島は、更に考える。(俺が妻を佐々木に渡すことと、俺が正子を心から愛していることとは、全く別問題だ)と、幸島は同じことを繰返し々々考えた。(佐々木が妻を犯すのを俺が堪えて見せるために、妻の寝室を越えて二階へ上る際、俺の手が妻の頬に触れ、妻の髪に触れたとしても、そして、俺が妻を心から愛している以上それは、<佐々木に渡すのは口惜しい>ということにはならない。人間の自由意志というものを、自然即ち神或は『本能の魔性』にはっきり示したに過ぎない!俺が正子という一人の人間を愛することは、全く別問題なのだ)と幸島は、自分の『こころ』に弁解するように、また一人呟いた。俺は肉体を通さなくとも、人間同志が粘膜と粘膜と接触させなくとも、セックスを通さなくとも、魂によってでも、そして愛情という柔軟性のある木橋によってでも、人間と人間は必ず結び付き得る!俺は確信するのだ。俺は佐々木にそれを示したいのだ。人間は、セックスだけで結びつくとは限らない。俺は佐々木が俺の妻とベッドを共にすることに、少しでも嫉妬したり、焦立ったりしやしない。若し俺が、少しでも佐々木に嫉妬するならば、セックスでしか夫婦は結びつかないという佐々木の『信念』」の真実性を裏書きすることになる。が俺は信じない。人閤は動物とは違う。精神だけが、堂々と人間とを区別出来る唯一のものじゃないか、俺は嫉妬に、理性を奪われて佐々木に腹を立てたり、正子とベッドを共にする物音にカッとなって佐々木の首を締めたり、そんなことはしやしない。それは、性でしか結びつき得ない人間の弱点を『本能という魔性』に証明して見せることだからだ。<何故非情に見ないのだ!>と、佐々木が俺に云った。だが、俺もまた佐々木に云ってやる、(何故、非情に見ない!) と。妻の臍から下くらい、そんなもの重要ではないさ、ああ、俺は正子の口にキスがしたい。幸島は歩いた。
腰を屈(かが)め、首を廻わして、あたりを偵察するように、闇を透かして見詰める佐々木の背中を突いて、「早く行け」と急がせながら、(しかし、佐々木が俺を侮辱したり軽蔑したりしたら、俺は佐々木を許さないつもりだ)幸島は歩いた。(人間万歳!首から上万歳)幸島は、佐々木の背中を見た。幸島は新しい勇気の湧くのを感じた。(来た)幸島は、正子の寝姿を思い浮かべながら歩いた。<もうすぐだ>