2015年4月2日
サーカスの親方(3)-5荻野彰久 荻野鐵人
このときの佐々木の眼は侮蔑に満ちていると、幸島は思った。「きさまは、どこまで俺を!」と、幸島は飛びかかるように降りて来て、佐々木の胸倉を、息の根が止まるほど、締め上げて、放した。幸島のふるえる声で云う早口の言葉が、佐々木を更に喜ばせもしたが軽蔑の念も起させた。――妻の寝ている部屋の見取り図を話し、妻の傍で、自分が妻にする愛の動作のしぐさまで説明し、「俺のする通りにしないと承知しないぞ」と、幸島は佐々木を睨みつけたのである。そして、幸島は自分が二階へ上るときにヘマをやって妻の眼を覚ますか、きさまの不手際で妻に気づかれてしまうか、その責任を明らかにしようと云うのである。佐々木は不信と侮蔑の眼を幸島に向けずには居られなかった。
扉を開けた幸島が、なかへ這入ってから、花壇のわきに電柱のように立っていた佐々木は、幸島の細君とはいったいどんな女なのだろう、真先に考えねばならぬことを佐々木はいま考えた。<ぼくには一年しか経ってない妻がある>と幸島が、最初に云った言葉を佐々木は忘れなかった。佐々木という男は、こういうことだけは、めったに聞きもらさぬ男である。
<だが、あれは嘘だ>と佐々木は考える。一本気で融通性のない幸島のような男は、娘を入手する方法を識らない、だから、結婚でなく、そこらの女が幸島に寄生しているのだろう、それに、融通のきかない男が、現代のような激しく転換する社会に生きていかれる訳はない、そして、そういう生活力のない男に結婚して来る娘は、気狂いか馬鹿だ。『一年しか経たない妻』は嘘だ、では、幸島の妻君とはどんな女なのだろう?と佐々木の眼は輝き出した。それから――と佐々木はまた空想をめぐらした。生活の思い出を分かち持たない、そこらの店で買って来た女? そんな女なら、愛情はない筈だ、だが――と佐々木は考え続ける。あの顔では二十七、八の幸島は、生活の思い出などある妻を持っている訳がない、種々な女が佐々木の空想のなかを、ファッションモデルのように、近づいて来ては遠のいていく。夫に愛されることのない妻のみにくい顔が、まず画き出された。それから佐々木の想像の部屋の片隅にはいつくばっている、ひねくれた『悪意』に満ちた、賤(いや)しく下品で吝嗇(りんしょく)で、怖ろしく外へ向いてしまった上顎の歯が、黄色い不潔な下顎の歯と噛み合さるのを拒んでいるそういう口の女?或いは、嘘つきで、みだらで、頭のてっぺんの赤く透けた女?――幸島よりも十も二十も年増の、鼻もちならない躰臭をさせている女?佐々木はポケットからタバコを出しながら曇った夜空を眺めた。