2015年4月9日
サーカスの親方(4)-5荻野彰久 荻野鐵人
「アンタ、近々、きっと妊娠すると思うんだ」
「どうして?」
「特に美しいと近所の人々も云っているだろう」
「誰のこと?」正子は、それが自分だと知っていたけれど、ワザと訊いて見る気になった。
「アンタのことだよ。妊娠する前には、自然界はメスを特に美しく仕立ててあるんだ。どんな醜い娘でも、或る期問美しく仕立ててある。つまり、種を植えつけて貰いたいときだけ、少なくとも、優しく美しくしてある」
「まア、ひどい」正子は、突然離れた。
「馬鹿だナ。それは生物界の話じゃないか」
其時に受けたキスの味が未だ舌先に残っている。それを思うと、正子は不図、噴き出しそうになった。(あッ、未だ還らないのかしら?) 正子は、戸口を見ようと、二階の梯子段を急いで駈け降りた。そのとき足が滑った。正子は落ちた。三段上から正子は逆様に転げ落ちた。臀部に掌を当て、跛(びっこ)を引きながら、扉の内側を見た。幸島は帰って来ていなかった。外へ耳をすました。何の音もしなかった。大して打ったところもなかったけれども、正子は急に悲しくなった。傍に幸島が居たら、当たり散したかった。悲しみが胸の奥から、こみあげて来た。正子は泣き出しながら、布団をのべ、シーツの皺をのばすと、そのまま横たわり、再び起きて、ネグリジェに着替えると、毛布で顔を被った。欠伸を二つ連続にするとそのまま眼をつぶった。ベナドリン、プロバリン、それにラム酒、一度に効きはしないか、正子は眠りに落ちていった。