2015年4月14日
サーカスの親方(5)-3荻野彰久 荻野鐵人
立った姿勢で、梯子段をあがろうとして、彼は頭でそれにぶつかった。虫の姿勢が矢張り安全じゃないか、彼は考えた。泥棒のように、音をさせぬように静かに静かに、一段ずつアトリエへ昇っていった。呻きが下から聴えた。彼は動かなかった。「あなた」と妻の声を聴いた。彼は凝(じ)っとしていた。彼は唾を呑み込んだが、ジワッと耳の下で鳴る音すら気になった。コトンと音が響いた。下の壁からはずし、脇の下に挾んで来た絵を不覚にも梯子に落してしまった、その響きだった。それは、一匹のメスを挾んで三匹のオス犬が、牙をむいていがみ合っている絵で、『愛情』という題のものだった。(何だって俺はこんなものを画いたんだろ) 彼は思った。その他、そこには、メスの尻を睨んだオス犬の腹の下から、火がついたような赤いペニスが出たり入ったりして、泪のような水滴を落している『青春』という題の絵や、親犬の乳首に、上向きに首をまげて吸っている仔犬たちの『慾』という絵や、遅れてついて来る仔犬たちを、辛抱強く離れたところから、立ち停って振り返りながら待っている親犬の『不安』という絵があったが (どうだっていいじゃないか) と彼はそれらの絵を無視した。
妻の呻きは止み、妻の軟かい腿と腿がぶつかる『音』を聴いたと思った。彼は『戦争』も『欲』も『不安』も壁から外して脇に挾んだが、一番小さい『愛情』だけは、顎の下に挾んだ。彼は登りはじめた。真っ暗で、何も見えなかった。彼は未だ階段があるものと思った。彼はアトリエの扉を捜そうと右手を差し出した拍子に、反射的に左側の脇下がゆるみ、ズトンと全部の額縁を落してしまった。彼はドキリとした。暫らく凝っとしていた。下から音は聴えて来なかった。