2015年4月16日
サーカスの親方(5)-4荻野彰久 荻野鐵人
ベニャ板の扉を押せば、直ぐそこが自分のアトリエだ。縁無し畳が敷かれている自分の仕事部屋だ。四ツん這いになったまま頭で扉を押した。自分の部屋も光りはなく暗くなっていた。差し伸べた手の平の感触で、畳と知れた。彼は用心深く『芽』も『生きる』も『愛情』も『不安』も『神』も、一つ一つ畳の上に積み重ねた。
「んんん」と下で妻の声がまた聴えた。彼は凝(じ)っとしていた。暗い二階で彼は膝を挙げ、腰を伸ばした。彼は起った。黒い空気が、肉体を外側からしめつけて来るのを彼は感じた。彼は天井から下っている電給をひねって、一度点けすぐ消した。部屋はまた暗黒に返った。部屋の中に彼は一人立っている。自分の鼻の先の壁にぶらさがっている絵が、光りを点けた瞬間に見えたままの色彩で、電気を消した今でも残像として彼の瞼の裏に残った。それは舗道を歩いている二匹の犬を、理由もなく細い針金で首にひっかけていく犬殺しの絵だった。それには『個人と現代』という題がつけられ、その題では気に入らず、対角線のバツをつけ、上の方に『恐怖』と直し、それも又、バツに消して『不安』という題をつけたものだった。木椅子に腰をおろした彼は又立った。光りを点け、素早く、扉の外の階段の最上段に出た。部屋の中の光りが外へ洩れて、下の妻の部屋まで届くかどうか、それを調べるためだった。
粗末な建具で、洩れる光は、ベニヤの扉の下を、一直線に噴き出ていた。構うものか、彼は思った。が、考えて見ると、妻と佐々木の行動を自分から邪魔したことになれば、それは自分が佐々木に嘘を云ったことになり、自分は『本能』にはっきり負けた事を相手に通告したも同然である。
『恐怖』の絵を、額縁からはずして、扉の下にかませた。が、そんな事をしなくてもよかったのだ、とすぐ気がついた。自分のアトリエの二階と妻の寝ている階下とは、踊り場を中間にS字に曲っているので、二階の光りは直接階下へ届くことはないのだ。幸島はそれを忘れていた。が、二階の扉の下から噴き出す光りの束は反射し、矢張り妻の部屋に朧(おぼろ)げながら光りを与えていた。