2015年4月17日
サーカスの親方(5)-5荻野彰久 荻野鐵人
静かに彼は自分の部屋の扉を開け中に入った。<これでよし>と彼は扉を静かに閉めた。下で音がした。心はいつかその方へ向いていった。扉を開けて佐々木が入って来たらしかった。(何だ、今入って来るのか、三十分たったら入れと云ったのに)、と彼はワイシャツの袖の下をめくって、腕時計を見た。(四十五分もたっているじゃないか。さては佐々木の方で、迷ったナと幸島は考えた。見ろ、俺は嘘は云っていない。それでも俺を疑うのか)。
本能だ本能だと、人間の行為にすべて『本能』の定規をあてはめようとする幸島だって、所詮は、人間が産んだ人間の子であって見れば、彼自身何と理論づけようと、自分の愛する妻の寝室へいま佐々木が入っていったと思うと、幸島は妙に全身がふるえた。カラカラ咽喉が乾いた。赤く跡がつくほど彼は唇を噛んだ。呑み込みたい唾も湧いて来なかった。妻の床の中へ入った佐々木はどんな手つきで、どんなしぐさをしているか、自分がするのと同じ順序、同じしぐさを佐々木がいましているに違いない、その一齣(こま)一齣が幸島の瞼の裏側に映った。――と、幸島は何かがさかんに脳の中で衝突し合っているのを感じた。<佐々木の奴こそ、本能に操られる人形さ!>幸島は思わず口ずさんだ。いましているであろう佐々木の動作を云っている、と幸島は思っているのだ。だが、それは実は自分の無意識の嫉妬の苦悩を、払い退けるときに思わず自分の口を衝いて出た言葉なのだと幸島は気づかない。
(俺は狂ってない)と彼は大股に、自分の部屋の中を歩き廻った。血が頭に集った。眼が霞むと彼は感じた。彼は頭を振った。彼は歩く。頭を振った。(こんなときは)と彼は別のことを考えようとする。自分がいま、苦しんでいるのは、自分自身が云いだした『本能』による苦悩だとは気づかず、彼は考えた―― (そうだ、こんなときは他の何か暢気なこと例えば動かない山の風景を) と彼は思い出そうとした。そんな山の風景画を思い出そうとしなくても、すぐ眼の前に、横2メートル、高さ1メートルの絵が見えているじゃないか、それは夏、蓼科高原の別荘に急に肥満して来た叔父夫妻を訪ねたとき思いついた空想画だったが――。