2015年4月21日
サーカスの親方(5)-7荻野彰久 荻野鐵人
彼は、実はその絵で、人間の内部に『本能』のゼンマイを巻いた『悪魔』―― (時にそれは『神』の様相を呈する)を表現するつもりだったが未完成の反古(ほご)に過ぎなかった。人間の『善』や『悪』は、悪魔が背中に巻いたゼンマイの強弱によるという幸島らしい一方的、そして幼稚な着想だったが結局、失敗作の一つだった。ふーと彼は太い吐息をついた。が、次の瞬間、今の太い吐息は、下の妻の音声じゃないか、何故か、幸島はそんな気がして来た。アトリエに立っている彼は、眼を垂直に下へ向けた。自分がいま踏んでいる床の、この真下に妻の躰が横たわっている。幸島が、この絵を眺めていることや、それから派生するいろいろな想念に捉われていること自体が、落葉をかぶった彼の意識下から竹の子のように頭を擡(もた)げて来る『本能』につながる抵抗だと彼は意識しない。(佐々木が入って来て、十分だ)と幸島は自分の腕時計を見ながら考える。『非情!』彼は唇を噛んだ。妻は、どんなしぐさをするか、幸島は自分の妻故、見えるように脳裡に浮ぶ。梯子から幸島は立ち上った。歩き出した。(本能につながる嫉妬に俺は苦しんでいるのではない) と幸島は歩きながら、自分に云って聞かせた。「思想だ」彼は、それを「思想だ」と叫んだ。(不道徳だって?) と幸島は未完成の『神』の絵を眺めながら心につぶやいた。人間がモラルといい、愛情と思っているものは、大自然が仕掛けた『本能』という穽じゃないか。彼は歩を早めた。手は固く握りしめられ、頬は突っ張っている。(それ見ろ! お前、苦しんでいるじゃないか)と誰かが幸島に云ったら、否!と彼は答えるだろう。(じゃ、お前は妻を愛しちゃいないんだろ!) 彼は強固に頭を振るだろう。(愛しているとも!)
幸島は戸棚を開けた。登山用ナイフを取出した。刃を伸した。彼はナイフを握った。下の妻の声が聞えた。呻きのような、唸りのような声だった。ナイフを掴んだ彼は一枚一枚犬の画をナイフで引き裂き始めた。『芽』も『生きる』も『愛情』も『戦争』も、そして『神』も、ナイフを突き刺し、最後に東の壁の画に来たとき、彼はニヤリと口を歪めた。