2015年4月24日
サーカスの親方(5)-10【完】荻野彰久 荻野鐵人
幸島は、陰惨なものを見たと思った。そのまま家に還り妻にその話しをすると、正子は、
「いいじゃない? 絵になるじゃないの」と、彼を励ました。「ただし、それは鞭を打たれているところは止めにして、交尾している場面だけじゃないと、現代風じゃないわね」と正子は笑った。
彼は、雪の降りしきる路上で、犬殺しに殴られながらも離れられないオスメス2匹の犬を画こうとしたのだったが、犬殺しが殴る鞭を避け、オスの躰が右に左に動き苦しむ角度によって、一層快感に首を縮めるメスを画いてしまった。だが、動的でない平面に画かれた犬殺しの表情が少しも怒っているように画かれてなく、むしろ、変に恍惚とした表情に画かれてしまっていた。怒り狂った犬殺しの鞭が、丁度高く振り上げられた瞬間の画で、その鞭は天を指していた。するとその画全体は、メスの尻を抱いているオスを、うっとりと眺めている男が、天に何か感謝している絵になっていた。幸島は、いま、それを引き裂こうとしている。「成程」と幸島がいま、その画を眺めていても、妻が感じたようにやはり一種の強烈な欲望を覚えるのだった。その画にナイフを当てようとした瞬間だった。佐々木が出て行くのか扉の軋む音がしたと思うと、
「おい、二階のサーカスの親爺さん、本能やさん ! ハハハハ」と佐々木の烈しく嗤う声が、表でした。
<佐々木は俺を嘲っている!>幸島は歯を喰いしばった。<なしとげた後、奴は俺を軽蔑している!>幸島はじっとしていられなかった。彼はとび降りた。幸島は妻を越えて表へ飛び出した。
幸島は佐々木を刺してしまった。
あっ!と幸島は我に還った。自分が云い出した本能というサーカスの親爺さんに操られて佐々木を殺したことに未だに気付かない幸島は、全く嫉妬のためでなく、<佐々木は俺を軽蔑したから殺したのだ>と思っている。
部屋に入っていくと、寝ていた正子は「遅かったのね。アナタじゃないこと?」と灯をつけた。幸島は頸垂れていた。
「アナタ、ひどい血!」正子はとび起きた。
妻、正子に伴われて行く幸島は、もう二度と見ることがないであろう空、雲、小石草、にいたるまで、眼に映るすべてのものに、無限の愛情を注ぎながら、夜明けの道を、完全に厳格な、しかし、不完全に理性的な、現実のなかへ、歩いていった……。