2015年5月12日
動物風景-10 荻野彰久 荻野鐵人
「あら! お前、喰わないのかアい」と、老婆はシワに包まれた濁った眼を丸くして、「フウウン、どうしてさ」と首を傾げた。
しばらくスピッツ犬の顔とブリキ製の餌の入れ物の中を見比べていた老婆は、溜息のときのように吐く長い息で云うのだった。
「どうして喰わないのさ、このメシに毒が入っていると云うのかい?」
啼き声をやめじっと老婆の顔を見つめているスピッツ犬に老婆は続けた。
「ちがう。ちがう。毒を入れるのはあすの朝だよ。いいからお食べ。今夜のは、毒なんか入っていないよ」
これはウソで、こんな場合犬殺しが犬を殺すのは、食物のなかに入れた毒物で殺すのではなく、できるだけ苦しめたうえで殺そうかと目論んでいるかのように、先ず前肢後肢を厚い板のうえに向うを向けて縛りつけたうえ、頭の後ろの下の部分の呼吸中枢のあるエンズイのところを、鉄のハンマで打って殺すのだ。
生き残っている人間が生きるために役に立つように、上手に皮を剥ぎ肉を取るためなのだ。なぜ頭の白いこの老婆は毒殺だなんてウソを云っているのか分らない、と云わんばかりに、さらにまた濁った眼と、白い頭の毛と赤い血の入っているあの肉体だけがウソのない真実なのであって、口をついて出る人間の言葉はウソだと云わんばかりに、じっと動かない小さな円(つぶ)らな眼をスピッツ犬は老婆に据えていた。