2015年5月18日
akira's view 入山映ブログ 審議会
お役人の独断専行をチェックすべくさまざまな仕掛けが考案され、いくつかは束の間はうまく機能したかに見えた。その代表例は小泉政権時代の「経済財政諮問会議」であったことはよく知られている。2001年に出来たこの制度は、森政権時代には機能していなかったものが、小泉政権になって竹中平蔵とい名馬を得たこともあって、にわかに政策の主導権を握ったことは(その成果に対する毀誉褒貶はともかくとして)衆目の認めるところだろう。めまぐるしく変わったその後の政権では機能のしようもなかったというのが実態に近いだろうが、首相に官僚主導からの脱却という強い意志があったかどうかも決定的な要素だ。
お役人牽制のいくつかの仕掛けは上記の会議に限ったことではなく、内閣府設置法や国家行政組織法に基づく無数の「審議会」もその一つだ。(ちなみに上記会議も条文こそ違え内閣府設置法による)これ以外にもお馴染みのところでは、社保庁の年金に関する「地方第三者委員会」もそうだし、全く法令に根拠を持たない民主党の政治資金問題に関する第三者委員会もこの試みの一つに加えても良いだろう。それらを数え上げるのがこのブログの目的ではなく、ここで問題にしたいのは審議プロセスだ。タテ割りの省庁が、既得権益に関する侵害を排除すべく、執拗な根回しやら都合の良い資料作成などなど、ありとあらゆる介入を試みるのは公知の事実だと言って良いし、第一委員の人選に際しても、いわゆる御用学者の類を重用するのは当然としても、民の側にも、選ばれるのを名誉と心得て官に「すりよる」姿勢を示すのも稀ではないと聞く。
一旦建設凍結が決定された国道18路線の「見直し」に関って各地方に設置された「事業評価監視委員会」もその典型例を提供する。費用対効果を算定して建設の是非を決定するこのスキームにおいて、建設費用を削減して再評価し、それによってゴーサインが出た8路線はともかく(これについても恣意的な数字いじりだと言う声もないではない)、残りの6路線については、当初建設の可否を判断する基準として設定された要素以外のものを加味して、建設効果を積み増しし、それによって基準をクリヤーしたと称する。いわばゲームが始まってからルールを変えるような話で、結論先にありきの後付けの理屈ともいうべき有様だ。こんなものを認める委員も委員だが、道路族議員の恫喝を奇禍として手品師よろしく新しい屁理屈や数字を捻出する官僚とは、一体なんなのだろう。
過疎地にとっての道路建設の是非が、一片の「血も涙もない」モノサシによって決められてはたまらない、という声があるのは解る。しかし、打ち出の小槌ではあるまいし、八方美人を避けて何らかのモノサシによって優先順位を決める、というのは為政者たるものの当然の義務だろう。実力不相応のウィッシュリストをごり押しする、というのでは政治でもなければ、まして行政でもない。そんなことでは歳出削減など夢のまた夢だ。予算獲得に執念を燃やすのがお役人の天性であるのだから、それと一蓮托生の「族」議員によって政治が機能を喪失しているいま、せめてもの頼りの綱は「民」の牽制だろう。審議会の類がその機能を果たせないとすれば、いつも同じ結論で恐縮だが、民間の非営利組織が声を上げる他はない。手回しよく公益法人制度改悪によってこれを殺戮にかかった役人の先見の明には敬服する。願わくばいま少し「建設」的な方向にそれを使ってくれないものだろうか。
2009年 07月 24日