2015年5月22日
akira's view 入山映ブログ 平知盛
「見るべきほどのものは見つ」と言い残して、華やかな鎧と共に入水して果てた知盛が、ロンドン塔や万里の長城を見ていた筈もない。だからといって誰が知盛の死生観を嗤うことができよう。自己完結した小宇宙の中で生きている人間にとって、巨視的に見た相対的価値などというのはそもそも存在しない。故に、どうでもよいことなのだ。などというと、ギリシャ時代の哲学者たちから総すかんを喰らいそうだが、そんな難しい話がしたい訳ではない。なまじ1億人もの質の良い市場を持ち、それなりに知的レベルも高く、治安も保たれている国の住民にとっては、外の世界とは「ものみ」の対象にこそなれ、その生き方、ものの見方などというのはまじめに向き合う対象にはならない、つまり日本に住んでパック旅行を何回かすれば「見るべきほどのものは見つ」ということになりがちだ、というのを回りくどく述べてみたに過ぎない。
それがどうした、ということなのだが、固有の価値観を保ちつつ、全く違った価値観を持つ人々と折り合いをつけることはそもそも至難の業に属する。これは何も源平の昔に遡らなくとも、お隣の将軍様とのお付き合いに思いをいたせば明々白々だろう。神学論争、という表現があるように、理念レベルの話で真っ向正面から向き合うと、ことは紛糾こそすれ相手をやっつける以外の結論にはなかなか達しない。ついこの間まではそれを地で行けばよかった。どうにも我慢できない相手はやっつけるのもあり、だったからだ。それが封じ手になっている今では、とにかく落としどころを見つけねばならない。さりとて譲れない、譲りたくない場面ではどうしましょう、ということになって、いくつかの譲れないことの間に優先順位をつけて、その心づもりを持って話し合いましょう、となる。
話し合いそのものにもルールがあって、それを誰がどうやって決めるんだ、というのもひと議論だが、それをさておくとすれば、ここでは場慣れと経験がものをいう。成功よりは失敗のほうが教訓に富む、というのは世の倣い。タテマエとホンネの使い分けの場数をどれほど踏んでいるか、という知恵はいくつもの苦い経験から人は、そして国は身につける。これを通例説得の技術というのだが、日本人の場合、とかく場慣れしていないこともあって、タテマエに本気でこだわった挙句、どうにもならなくなると突然無原則に豹変する、となりがちなように見える。非核三原則と核搭載艦船寄港、自衛隊海外派遣と武器携行、資本市場への外資参入などはその一例だろう。国際人、というコトバがどうかすると揶揄的な意味合いで使用され、バナナだ、西洋かぶれだと見下げられた(まあ、そのテの軽佻浮薄なのも少なくなかったことも事実だが)のもそんなに遠い昔の話ではない。
だから、国際交渉技術に長けた日本人を作らねば、というと、小学校から英語を教えようなどという間抜けた政策が大まじめで出て来たりする。高校の英語教師の半分を英語圏から採用するなどという話には金輪際ならない。帰国子女という貴重な財産も、あたら外国の会社にさらわれてしまっている。(海外留学経験が必ずしもプラスとして機能しないのは麻生首相に明らかだが、これは別論。)世界共通ルールの最たる言語である「民主主義」とか「人権」というコトバにしても、義務教育の教科書にある砂糖をまぶしたような口当たりの良い観念を一歩も出ないと言って良い。
日付変更線を通過すると国際人が一変して日本人になる、という「使い分け」が通用している限り、この状態は変わらないと言って良いだろう。「使い分け」が賢明な処世術である事態を何とかしない限り、交渉下手の日本(パブリックセクターを念頭においている。民間セクターは全く別の話だが、それがこれほど見事にパブリックセクターに移植されていないのは驚異的だ、という含意である。為念。)は当分変りそうもない。で、つまりは「日本の常識、世界の非常識」を自戒しましょうという月並みな話に落ちた。
2009年 07月 31日