2015年6月18日
動物風景-完 荻野彰久 荻野鐵人
処理場の扉が開いた。男が出て来た。痘痕(アバタ)顔の男だった。軍手をはめた手で、自転車のハンドルを握って出て来た。自転車の荷置には竹篭がアラナワで縛り付けてあった。門を出ると男は自転車に跨った。ムシロが被せてあった竹篭から赤い血がポタリポタリ白い雪の上に落ちた。
禿頭(トクトウ)病の男が続いた。来るときは歩いて来たこの男も自転車を引っ張っていた。この男の荷置の竹篭のなかには毛皮が未だ血をしたたらせていた。「黒」「白」「黄」の毛皮が竹篭のフチにハミ出て見えた。
男たちは、急いでいるらしく足を早めていた。後ろに残った処理所の中からはもう何の音もしなかった。ぼくはそれまでと同じように処理所の前に、揃えた前脚二本の上に顎をのせて、殺されていないかも知れないスピッツ嬢を待っていた。
なぜか、ときどきそんな錯覚におそわれた。風が吹いた、粉雪が眼の前で舞った。丸い白い毛並の小さい顔が、円(つぶ)らな黒い瞳と、黒い鼻と小さい口と、スピッツの顔が閉じているぼくの瞼の裏側に浮んだ。
日が暮れた、風が吹いた、雪明りであたりは仄(ほの)かな色に包まれていた。やはり揃えた二本脚の上に顎をのせて、じっと生きかえるはずの彼女の出て来るのを待っていた。
「ロミオ! ロミオ!」声がした。ハッとぼくは振り返った。こんな夜更けに、こんな屠殺場の前に、こんな雪の荒野にと、ぼくはあたりを見廻した。ぼくはそのまま顎を揃えた二本の前脚の上に乗せた。なにも見えなかった。粉雪を運ぶ風の音しか聞えなかった。
又声がした、スピッツの声だと思った。それが幸子の声にもなったり、けい子の声になったりして聞えるのだ。そんな筈はない。ぼくは声のありかを見廻わした。雪を運んだ風がポプラの小枝を鳴らしていた。
処理所の中からは、もう何の音も聴えなかった。誰の声ももう聴えなかった。