2015年6月24日
春の夢-1 荻野彰久 荻野鐵人
芳一はひどく咽喉(のど)が渇いていた。狭い廊下を進み、お勝手へ入り開けようとする冷蔵庫の蓋の握りに手が行ったとき「いけない!」と伸びてきた冷たい一つの手が自分の手の上に乗ったのが、窓から射している薄い光の中に見えた。
「君のうちは破産したのだ。俺たちは差し押えにきた執達吏だ」
赤ら顔の手の主が甲高(かんだか)い声で言った。芳一はうっかり気が付か無かったが、一方の手にノート、他方の手に鉛筆を持った目付きの悪い他のもう一人の男がすぐ傍に立っていて、同僚の男に何かゆっくり頷(うなず)いていた。
そう言えばほんの少し前、外出から芳一が自家の近くまで帰って来たとき、隣にも受験生のお嬢さんがいる筈なのに迷惑なことだろうと思われるほど、取り囲まれた塀の中で、けたたましく芳一のところの犬が吠えているのが、遠くから既に聞こえていたが、それはこの見知らぬ二人の男のせいだったのだ、と気付く。
一人の男が自由に冷蔵庫を開けられないように芳一の見ている間に、ベタッと札を張っていた。あっけにとられた芳一が、冷蔵庫を開けようとしたとき、まだ曲げたままになっている腰を伸ばしてゆっくり起きあがると、手で口を押えながら勝手へ入ってきた母が「ほんとうなのだよ、芳一」と泣きくずれる。
任かせておいた店の者が他所へ払うべき金を攫(さら)い女と逃げ、一杯出した不渡手形のためこの始末になったのだと、母は顔を抑えて泣き、妹のヱリ子は母の肩に手を乗せて泣く。