2015年7月3日
春の夢-8 荻野彰久 荻野鐵人
彼が校門を出る頃には、さっきあれほど鼻に突いていた生臭い魚のニオイもすっかり消えていた。が校門のすぐ脇に背の低い青白い顔の男が手に大学帽を持って立っている。芳一の顔を見ると素早く前へ進み出て深くお辞儀をし、矢庭に芳一の頭に持っていた帽子を被らせ「よくマァお似合いじゃありませんか!」と少し離れたところから芳一の躰を上から下まで調べるように眺めて言う。手に帽子を取って見ると徽章も規定の『東大』のものだ。
「手前の店のセンデンになりますので。え、どうぞ被って下さい。貴方のようなお方に被って戴ければウチの店も…ヘヘヘへ」と気味の悪い笑い声とともに無理矢理に被らせてしまう。無下(むげ)に断るのも悪いので「じゃ」と云って手に貰って歩き出すと左手から走ってきた若い女が自分の袖を引っ張る。アァと顔を挙げると中学時代同級のN子で、今は洋服店に嫁いできていると云い、お祝になんとしても「『東大』の制服」を一着貰って戴きたいと言うのである。